STEP 0
準備
世界史の地図を頭に入れる ── 五つの舞台と、三つの合流点
目安 1〜2日
このステップの到達点 ── 世界史の主な舞台を五つ言えて、「世界がいつ一つにつながったか」を三つの出来事で説明できる。ここができていれば、あとの16ステップは地図に色を塗っていく作業になります。
まず、五つの舞台をおさえる
世界史に出てくる地名は膨大ですが、話の舞台はおおむね五つに整理できます。人名を覚える前に、いま自分はどの舞台の話を読んでいるのかを意識するだけで、混乱はぐっと減ります。
- 西アジア(オリエント):いまのイラク・イラン・トルコ・エジプトのあたり。文明も、一神教も、ここから始まった
- ヨーロッパ:ギリシャ・ローマに始まり、キリスト教とともに育つ。近代に世界の中心になる
- 南アジア(インド):仏教とヒンドゥー教の故郷。数学と交易の要
- 東アジア(中国・朝鮮・日本):漢字・儒教・律令という共通の土台を持つ地域
- アメリカ大陸・アフリカ・草原地帯:長く独自に歩み、近世以降に世界史の激流に巻き込まれる
「いつ世界が一つになったか」 ── 三つの合流点
世界史の流れをつかむうえで最も大事なのが、バラバラだった地域がつながった瞬間です。ここだけは順番ごと覚えてください。
- 前2世紀ごろ①シルクロードが開ける。中国とローマが、間接的にモノでつながる
- 13世紀②モンゴル帝国がユーラシアを一つの通行圏にする。人と情報が一気に動く
- 15〜16世紀③大航海時代。海路でアメリカ大陸も結ばれ、地球全体が一つの経済圏になる
- 19世紀産業革命と蒸気船・電信。世界が「同じ時間」で動きはじめる
- 20世紀後半〜航空機・コンテナ船・インターネット。いまのグローバル化へ
年号より先に、「同時代」の感覚を持つ
世界史でいちばん役に立つ問いは、「そのころ、ほかの場所では何が起きていたか」です。たとえば日本で源頼朝が幕府を開いたころ、ユーラシアではチンギス=ハンが台頭していました。日本が「元寇」で攻められたのは、その延長です。こうして横に並べると、点だった知識が一気に線になります。
日本史と並べてみる 卑弥呼が魏に使いを送ったころ、ローマ帝国は最盛期を過ぎたあたり。聖徳太子のころ、西アジアではムハンマドがイスラーム教を説きはじめていました。このページでは、要所に紫色の
「日本史と並べてみる」欄を置いています。
ゼロから学ぶ日本史とあわせて読むと、理解が二倍になります。
西暦と、その前の数え方
世界史では紀元前(前)と紀元後を行き来します。紀元前は数字が大きいほど古い、という点だけ注意してください。前3000年は前500年より2500年も昔です。また「世紀」は100年のまとまりで、1901年から2000年までが20世紀です。1999年は20世紀、2001年は21世紀。ここは大人でもよく間違えます。
覚え方のコツ 「世紀の数 − 1」に、下二桁を足すと年になります。19世紀=1801〜1900年。フランス革命(1789年)は18世紀の終わり、明治維新(1868年)は19世紀の後半。この変換が瞬時にできると、世界史の会話がぐっと楽になります。
歴史の調べ方 ── 何を根拠にしているのか
世界史も、日本史と同じく文字で書かれた史料と発掘された遺物から組み立てられています。ただし世界史では、誰が書き残したかがとりわけ重要です。たとえば古代の遊牧民について私たちが知っていることの多くは、彼ら自身ではなく、彼らに攻められた側(中国やギリシャ)の記録です。書き残す力を持っていた側の視点だけが残りやすい ── このかたよりを知っておくことが、歴史を読む力の第一歩になります。
気をつけたいこと 歴史の解釈、とくに植民地支配・戦争・宗教にかかわる出来事については、国や立場によって評価が大きく分かれます。このページは事実の流れをできるだけ中立に示すことを目指し、評価が分かれる点は「分かれている」と書きます。最終的な判断は、複数の資料にあたってご自身で考えてください。
一問一答
- 世界がつながっていく三つの大きな合流点を、古い順に挙げてください。
- 1789年は何世紀ですか。
- 遊牧民の歴史を読むとき、注意すべき「かたより」とは何ですか。
解答を見る
- シルクロード、モンゴル帝国、大航海時代。
- 18世紀(1701〜1800年)。
- 記録の多くが、遊牧民自身ではなく攻められた側(定住社会)によって書かれていること。
STEP 1
古代
文明のはじまり ── 麦をまいた日から、王と文字が生まれた
目安 4日
このステップの到達点 ── 農耕 → 余り → 都市・身分・文字・国家という一本の因果を説明できる。四つの古代文明の場所と特徴を、川の名前とセットで言える。
すべては「食べ物が余った」ことから始まった
約1万年前、西アジアで麦の栽培と羊・山羊の飼育が始まりました。これを農耕の開始といいます。狩りと採集の暮らしとの決定的な違いは、食べ物を貯められることです。ここから、世界のどこでも同じ順番で社会が変わっていきます。
- 穀物は貯蔵できる → 人口が増え、同じ場所に住み続けられる
- 食べ物をつくらなくてよい人が現れる → 神官・職人・戦士・王という分業が生まれる
- 誰がどれだけ納めたか記録する必要が出る → 文字が生まれる
- 貯えと水利を守り、また奪うために → 軍隊と国家ができる
つまり文字は、詩や物語のためではなく倉庫の帳簿のために発明されたのです。最古の粘土板の多くは、麦や家畜の数を書いた記録でした。
四つの大河のほとりで
大きな川のそばは、水と肥えた土が手に入る一方、治水と灌漑に大人数の共同作業が必要でした。人をまとめる仕組み ── つまり国家 ── が育ちやすかったのはそのためです。
※ 「四大文明」というまとめ方は日本の教科書で広く使われてきた整理ですが、世界的には必ずしも標準ではありません。中央アメリカやアンデス、西アフリカにも独自の都市文明があり、近年は「文明は同時多発的に生まれた」と説明されることが増えています。
メソポタミア ── 法と時間の発明
ティグリス・ユーフラテス両川にはさまれた地域をメソポタミア(=「川のあいだ」)といいます。前3500年ごろシュメール人が都市国家をつくり、粘土板に楔形文字を刻みました。開けた平地で外敵に侵入されやすく、支配者が次々に交代したため、異なる民族を同じルールで治める必要が生まれます。その答えが法でした。
ハンムラビ法典(前18世紀ごろ・バビロン)史料
もし人が他人の目をつぶしたならば、その人の目をつぶさなければならない。
もし人が他人の骨を折ったならば、その人の骨を折らなければならない。
もし人が平民の目をつぶし、あるいは平民の骨を折ったならば、銀一マナを支払わなければならない。
読みどころ
「目には目を、歯には歯を」で知られる条文です。残酷に見えますが、当時としては報復を無制限にしない歯止めでした(やられた以上にやり返してはいけない)。同時に、三行目に注目してください。相手の身分によって罰が変わる=身分制が法にはっきり書かれています。ここが近代の「法の下の平等」との決定的な違いです。
エジプト ── 「ナイルのたまもの」
ギリシャの歴史家ヘロドトスは、エジプトを「ナイルのたまもの」と表現しました。ナイル川は毎年ほぼ同じ時期に増水し、肥えた土を運んできます。増水の時期を予測する必要から天文学と太陽暦が発達し、氾濫のあと畑の境界を引き直す必要から測量術(幾何学の元)が育ちました。王はファラオと呼ばれ、神そのものとして扱われ、巨大なピラミッドが築かれました。砂漠と海に囲まれて外敵が入りにくく、約3000年にわたって同じ文明が続いたのが最大の特徴です。
鉄・アルファベット・一神教 ── 三つの発明
前1500年ごろから、西アジアで後の世界を変える三つのものが生まれます。
鉄器ヒッタイト
青銅より硬く安価。武器と農具の両方を強化し、生産力と軍事力を一変させた。
アルファベットフェニキア人
数十文字で書ける表音文字。商人が使い、ギリシャ経由でローマ字(いまの英語の文字)になった。
一神教ヘブライ人
唯一の神を信じるユダヤ教。のちのキリスト教・イスラーム教の母体となった。
貨幣リディア
前7世紀ごろ、世界初とされる金属貨幣。交換の効率を飛躍的に高めた。
オリエントを最初に一つにした国 ── アケメネス朝ペルシア
前550年、アケメネス朝ペルシアが興り、ダレイオス1世のときにエジプトからインダス川まで支配する大帝国になりました。注目すべきはその統治のうまさです。全国を州に分け知事(サトラップ)を置き、「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官に見回らせ、「王の道」という国道と駅伝制で情報を高速で運びました。そして征服した民族の宗教や習慣を認めた(寛容政策)。力だけでなく、認めることでまとめる ── 帝国運営の一つの型がここにあります。
- 前9000年ごろ西アジアで農耕と牧畜が始まる
- 前3500年ごろメソポタミアに都市国家。楔形文字が生まれる
- 前3000年ごろエジプト王国が成立。ピラミッド建設は前2500年ごろ
- 前2600年ごろインダス文明。モエンジョ=ダーロの計画都市
- 前18世紀ハンムラビ法典が定められる
- 前1600年ごろ中国に殷。甲骨文字による占いの政治
- 前1100年ごろ周が殷を倒し、封建制をしく
- 前550年アケメネス朝ペルシアが興り、オリエントを統一する
日本史と並べてみる エジプトでピラミッドが築かれていた前2500年ごろ、日本列島は縄文時代のまん中でした。三内丸山遺跡の大集落が営まれていたのが、ちょうどこのころです。文明の順番に優劣はありませんが、大河のそばで灌漑が必要だった地域ほど早く国家ができたという条件の違いは知っておくと役に立ちます。
一問一答
- 文字はもともと何のために発明されたと考えられていますか。
- ハンムラビ法典から読み取れる、当時の社会の特徴を一つ挙げてください。
- アケメネス朝ペルシアが広い領域をまとめられた理由を二つ挙げてください。
解答を見る
- 収穫物や家畜を記録する、倉庫の帳簿のため。
- 身分によって刑罰が異なる身分制社会だったこと(報復の上限を定めた点も可)。
- 「王の道」と駅伝制による情報網、そして被征服民の宗教や習慣を認めた寛容政策。
STEP 2
古代
古代ギリシャ ── 市民が政治を決める、という発明
目安 3日
このステップの到達点 ── なぜギリシャで民主政が生まれたのかを地形と戦争から説明でき、同時にその民主政が誰を排除していたかも言える。いまの選挙制度の原点です。
山だらけの地形が、小さな国をたくさん生んだ
ギリシャは山がちで平地が少なく、大きな川もありません。そのため大河文明のような一つの巨大国家ができず、山あいや海沿いに数百の小さな都市国家 ── ポリス ── が分立しました。ポリスの中心には神殿を置いた丘(アクロポリス)があり、そのふもとに広場(アゴラ)がありました。アゴラは市場であり、同時に市民が議論する場所でした。
土地がやせて穀物が足りないため、ギリシャ人は海に出て植民市をつくり、オリーブ油とぶどう酒を輸出して穀物を輸入しました。交易が日常であることが、彼らを外に開かれた、議論好きの人びとにしていきます。
アテネとスパルタ ── 対照的な二つのポリス
アテネ民主政
海軍と交易で栄えた。市民全員が参加する民会が最高機関。学問と芸術の中心。
スパルタ軍国主義
征服した多数の隷属民を支配するため、市民は生涯を軍事訓練に捧げた。質実剛健。
ペルシア戦争 ── 民主政を強くした戦争
前500年ごろ、巨大なアケメネス朝ペルシアがギリシャに攻め込みます(ペルシア戦争)。前490年のマラトンの戦いで重装歩兵が勝ち、前480年のサラミスの海戦ではアテネの軍船が大勝しました。ここが重要です。軍船をこいだのは、武具を買えない貧しい市民でした。国を守った実績によって彼らの発言力が高まり、アテネの民主政が完成へ向かいます。「戦い方が変われば、政治の形も変わる」 ── 世界史でくり返し現れる法則です。
ペリクレスの時代 ── 直接民主政の完成と限界
前5世紀半ば、指導者ペリクレスのもとでアテネは全盛期を迎えます。18歳以上の男性市民全員が参加する民会がすべてを決め、役人はほとんどがくじ引きで選ばれ、日当も支払われました。代表者を選ぶ現代の間接民主政ではなく、本人が直接決める直接民主政です。
ペリクレスの演説(トゥキュディデス『歴史』・前431年ごろ)史料
われらの政体は、少数者ではなく多数者の利益のために統治するがゆえに、
民主政治と呼ばれる。
法律のうえでは、すべての人が対等の権利をもつ。
公の職務につくにあたっては、家柄ではなく、その人の能力が重んじられる。
貧しさは恥ではない。恥ずべきは、貧しさから抜け出す努力をしないことである。
現代語訳(要旨)
私たちの政治は、一部の者ではなく多数者のために行われるから民主政治と呼ばれる。法の前ではみな対等で、公職につくときは家柄ではなく能力で選ばれる。貧しいことは恥ではない。
ここを外すと誤解します この「すべての人」に、女性・奴隷・外国人(在留外国人)は含まれていません。参加できたのはアテネ生まれの成年男性市民だけで、人口の1〜2割程度と推定されています。しかも彼らが政治に打ち込めたのは、奴隷が労働を担っていたからでした。民主主義の出発点であると同時に、大きな排除の上に成り立っていた ── その両方を言えることが正しい理解です。
戦争の後の衰退と、哲学の誕生
ペルシアを退けたアテネは同盟の盟主として力を持ちすぎ、スパルタと衝突します(ペロポネソス戦争、前431〜前404年)。長い内戦でポリス世界は疲れきり、やがて北方のマケドニアに従うことになります。しかし政治が混乱した時代こそ、「そもそも正しさとは何か」を問う哲学が生まれた時代でもありました。
ソクラテス前469頃〜前399
「無知の知」。問答によって相手に自分の無知を気づかせた。裁判で死刑となる。
プラトン前427頃〜前347
ソクラテスの弟子。理想の国家像を論じ、西洋哲学の土台をつくった。
アリストテレス前384〜前322
あらゆる学問を体系化。「万学の祖」。アレクサンドロスの家庭教師でもあった。
ヘロドトス前5世紀
『歴史』でペルシア戦争を記述。「歴史の父」と呼ばれる。
アレクサンドロス大王とヘレニズム
前334年、マケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征に出発し、わずか10年でアケメネス朝を滅ぼし、エジプトからインダス川まで支配しました。彼は各地に「アレクサンドリア」という都市を築き、ギリシャ人と現地の人びとの融合を進めます。こうして生まれたギリシャ文化とオリエント文化が混ざった文化をヘレニズムといいます。この文化は東へ伝わり、のちにインドのガンダーラ美術(ギリシャ風の顔立ちの仏像)を生みました。日本の仏像の顔立ちにも、遠くギリシャの影響が届いているのです。
- 前8世紀ごろポリスが各地に成立。ホメロスの叙事詩が成立
- 前776年第1回オリンピアの祭典(近代オリンピックの起源)
- 前490年マラトンの戦い。アテネがペルシアを撃退
- 前480年サラミスの海戦。無産市民の活躍で民主政が前進
- 前443年〜ペリクレスの指導下でアテネ民主政が全盛に
- 前431〜前404年ペロポネソス戦争。アテネが敗れ、ポリスが衰える
- 前334年アレクサンドロス大王の東方遠征。ヘレニズム時代へ
一問一答
- ギリシャで巨大な統一国家ができず、ポリスが分立したのはなぜですか。
- サラミスの海戦がアテネの民主政を進めたのはなぜですか。
- アテネの民主政に参加できなかったのはどのような人びとですか。
解答を見る
- 山がちで平地が少なく、大河もなかったため、大規模な統一の必要も条件もなかったから。
- 武具を買えない貧しい市民が軍船のこぎ手として活躍し、発言力を高めたから。
- 女性、奴隷、在留外国人(および未成年)。
STEP 3
古代
ローマ ── 一つの都市が、地中海を「内海」にした
目安 4日
このステップの到達点 ── ローマが共和政から帝政へ変わった理由を説明でき、いまも私たちが使っているローマの遺産を三つ挙げられる。キリスト教が世界宗教になった道すじも分かる。
王政 → 共和政 → 帝政、という一本道
ローマははじめイタリア半島の小さな都市国家でした。前509年に王を追放して共和政となり、貴族による元老院を中心に運営されます。平民は兵士として戦ったことを理由に権利を求め、長い闘争の末に護民官や十二表法(前450年ごろ、ローマ最初の成文法)を勝ち取りました。戦争に参加した者が権利を得る ── ギリシャと同じ動きです。
地中海の覇者へ ── ポエニ戦争
前264年から3度にわたり、北アフリカの海洋国家カルタゴと戦います(ポエニ戦争)。第2回では、カルタゴの名将ハンニバルが象を連れてアルプスを越えてイタリアに侵入し、ローマを壊滅寸前まで追いつめました。しかしローマは粘り勝ちし、前146年にカルタゴを滅ぼします。こうして地中海はローマの「内海」になりました。
ところが、勝利がローマを内側から壊しはじめます。長期の従軍で中小農民は畑を失い、一方で有力者は征服地の安い奴隷を使う大農場(ラティフンディア)で富を独占しました。格差の拡大です。土地を失った市民は都市に流れ込み、「パンと見世物」を求める群衆となり、有力者はそれを利用して権力を争いました。
カエサルとアウグストゥス ── 共和政の終わり
混乱のなか、軍を握った実力者が台頭します。ガリア(いまのフランス)を征服したカエサルは独裁的な権力を得ますが、前44年に共和政を守ろうとする人びとに暗殺されました。その後継争いを制した養子オクタウィアヌスが、前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳ある者)の称号を受け、事実上の初代皇帝となります(帝政の開始)。
ここが大事です。彼は「王」を名乗らず、共和政の役職と形式を残したまま、実権だけを一手に握りました。形式を壊さずに中身を変える ── これが、混乱を望まないローマ市民に受け入れられた理由でした。以後約200年、地中海世界は安定した繁栄の時代を迎えます。これをパクス=ロマーナ(ローマの平和)といいます。
いまも残るローマの遺産
ローマ法法律
広大な帝国の多様な民に適用する「万民法」へ発展。近代ヨーロッパの法律の土台となった。
ラテン語言語
イタリア語・フランス語・スペイン語の母。英語の語彙や学名にも深く残る。
暦時間
ユリウス暦を改良したグレゴリオ暦が現在の暦。July・Augustはカエサルとアウグストゥスの名。
土木インフラ
「すべての道はローマに通ず」。街道・水道橋・浴場・コロッセウム。実用の技術に秀でた。
ギリシャとローマの得意分野の違い ギリシャは考えること(哲学・数学・演劇)に秀で、ローマはつくること・治めること(土木・法律・軍事)に秀でていました。ローマ人自身が「われわれはギリシャに文化で負けた」と認めており、教養としてギリシャ語を学びました。征服した側が、征服された側の文化を取り入れるという現象は世界史でくり返し起こります。
キリスト教の誕生と広がり
ローマ支配下のパレスチナで、1世紀前半にイエスが神の愛と隣人愛を説きました。イエスは処刑されますが、弟子たちが復活を信じて教えを広め、キリスト教が成立します。ユダヤ教が民族の宗教だったのに対し、キリスト教は民族を問わず誰でも救われると説いた点が決定的でした。
皇帝を神として礼拝することを拒んだため、はじめ激しく迫害されましたが、信者は増え続けます。ついに313年、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令で公認し、392年には国教となりました。弾圧されていた宗教が、帝国を支える柱に変わったのです。帝国の道路網と共通語が、そのまま布教の道具になりました。
そして分裂と滅亡
3世紀以降、帝国は財政難と異民族の侵入に苦しみます。395年に東西に分裂し、西ローマ帝国は476年にゲルマン人の傭兵隊長によって滅ぼされました。ここが「古代の終わり・中世の始まり」とされる区切りです。一方、東ローマ(ビザンツ)帝国は1453年まで、さらに約1000年続きました。「ローマが滅びた」と一口に言えないところが要注意です。
- 前509年王を追放し共和政が始まる
- 前264〜前146年ポエニ戦争。カルタゴを滅ぼし地中海を制する
- 前44年カエサルが暗殺される
- 前27年オクタウィアヌスがアウグストゥスとなり帝政開始。パクス=ロマーナへ
- 30年ごろイエスが処刑される。キリスト教が生まれる
- 313年ミラノ勅令でキリスト教を公認
- 392年キリスト教がローマ帝国の国教になる
- 395年帝国が東西に分裂する
- 476年西ローマ帝国が滅亡(古代の終わりとされる)
日本史と並べてみる ローマがパクス=ロマーナを謳歌していた2〜3世紀、日本列島では邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送っていました(239年)。西ローマが滅びた476年ごろ、日本は古墳時代で、大仙陵古墳が築かれてまもないころです。
一問一答
- ローマの征服戦争が、国内に何をもたらしましたか。
- アウグストゥスが「王」を名乗らなかったのはなぜですか。
- キリスト教がユダヤ教と違って広く受け入れられた理由は何ですか。
解答を見る
- 中小農民の没落と、奴隷を使う大農場による富の集中 ── つまり大きな貧富の差。
- 共和政の伝統を重んじる市民の反発を避け、形式を残したまま実権を握るため。
- 民族を問わず、誰でも信仰によって救われると説いたから。
STEP 4
古代
インドと中国 ── 世界宗教と巨大帝国、そしてシルクロード
目安 4日
このステップの到達点 ── 仏教が生まれた理由と儒教が国の学問になった理由を、それぞれの社会の事情から説明できる。シルクロードが何を運んだかを三つ挙げられる。
インド ── 身分制度への異議申し立てとして生まれた仏教
前1500年ごろ、中央アジアからアーリヤ人がインドに入り、先住民を従えるなかで身分の区別が固定していきました。これがヴァルナ制(のちのカースト制度の土台)です。頂点に司祭階級のバラモンが立ち、その下に武人、庶民、隷属民が置かれました。バラモンが行う複雑な祭式が絶対とされる社会です。
前6〜前5世紀ごろ、これに疑問を投げかける思想が現れます。その一つが、シャカ族の王子ガウタマ=シッダールタ(ブッダ)の教えでした。彼は生まれではなく、自分の心の持ちようで苦しみから解放されると説き、身分にかかわらず弟子を受け入れました。同時期、ヴァルダマーナが徹底した不殺生を説くジャイナ教を開いています。身分制の重さが、それを乗り越える思想を生んだのです。
『ダンマパダ(法句経)』(初期仏教の詩集)史料
実に、怨みは怨みによって、ついに息むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
読みどころ
やり返すことでは憎しみは終わらない、という教えです。ハンムラビ法典の「目には目を」と読み比べると、同じ「報復」という問題に、まったく違う答えを出していることが分かります。世界史は、こうした答えの違いを比べると面白くなります。
インドの統一と、仏教が世界へ出た瞬間
前4世紀末、マウリヤ朝がインドの大部分を統一します。第3代アショーカ王は、激しい征服戦争のむごさを悔いて仏教に帰依し、石柱に法(ダルマ)を刻ませ、スリランカなど国外へ布教団を送りました。仏教が地域宗教から世界宗教へ踏み出した瞬間です。
その後、1〜3世紀のクシャーナ朝では、ヘレニズムの影響を受けたガンダーラ美術が生まれ、はじめて人の姿をした仏像がつくられました。この時期に広がった大乗仏教が中央アジア・中国・朝鮮を経て、6世紀に日本へ届きます。さらに4〜6世紀のグプタ朝では、民間信仰と結びついたヒンドゥー教が主流となり、数学ではゼロの概念と十進法が確立しました。
「アラビア数字」は本当はインド数字 私たちが使う0〜9の数字は、インドで生まれ、イスラーム世界を経てヨーロッパに伝わりました。ヨーロッパ人がアラビア経由で受け取ったので「アラビア数字」と呼ばれていますが、発明したのはインドです。ゼロがなければ、いまのコンピュータもありません。
中国 ── 戦乱が思想を生み、思想が帝国を支えた
周が衰えた前770年以降、諸国が争う春秋戦国時代が約550年続きます。勝ち残るために各国が有能な人材を求めた結果、多くの思想家が現れました。これを諸子百家といいます。
儒家(孔子)徳による政治
思いやり(仁)と礼を重んじ、上に立つ者が徳を示すべきと説く。のちの東アジアの基本教養に。
法家(韓非)法による政治
人は利で動くから、厳しい法と賞罰で治めよ。秦の統一を支えた実践的な思想。
道家(老子・荘子)無為自然
作為をやめ自然に従え。政治から離れた生き方を説き、東アジアの芸術に影響。
墨家(墨子)兼愛・非攻
区別なく人を愛し、侵略戦争に反対。防御の技術集団でもあった。
『論語』(孔子と弟子の言行録)史料
子曰く、己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。
子曰く、学びて時に之を習う、亦説ばしからずや。
現代語訳
先生は言われた。「自分がされたくないことを、人にしてはならない」。「学んで、おりにふれて復習する。なんと喜ばしいことではないか」。── 前者は世界中の宗教・道徳に共通して現れる考え方で、「黄金律」と呼ばれます。
秦と漢 ── 中央集権と、儒教の国教化
前221年、秦の始皇帝が中国を統一しました。彼は法家の思想により、封建をやめて全国に役人を派遣する郡県制をしき、文字・貨幣・度量衡を統一し、北方の遊牧民に備えて万里の長城をつなげました。しかし急激な統制と重い負担、思想弾圧(焚書坑儒)への反発から、統一からわずか15年で滅びます。
続く漢は、秦の中央集権の枠組みを受け継ぎつつ、統治の理念に儒教を採用しました。力で奪った権力を、徳という物語で正当化する ── この組み合わせが強く、以後2000年にわたる中国の政治の基本形になります。武帝の時代に領土は最大となり、儒学が官学とされました。後漢の時代には蔡倫が製紙法を改良(105年)。紙は記録と学問のコストを激変させ、のちにイスラーム世界を経てヨーロッパへ伝わります。
シルクロード ── 世界史はじめての「合流点」
武帝が匈奴に対抗するため張騫を西域へ派遣したことをきっかけに、東西を結ぶ交易路が開けました。これがシルクロード(絹の道)です。運ばれたのはモノだけではありません。
- 東から西へ:絹、のちに紙・火薬・羅針盤・印刷術
- 西から東へ:ガラス、金銀器、ぶどう・馬、そして仏教
- 意図せず運ばれたもの:疫病。交易路は病気の通り道でもあった
ローマでは絹が金と同じ重さで取引されたといわれます。ローマ人と漢の人は直接会うことはほとんどありませんでしたが、互いの品物は確かに届いていました。世界がうっすらとつながり始めた最初の瞬間です。
- 前1500年ごろアーリヤ人がインドに進入。ヴァルナ制が形成される
- 前5世紀ごろブッダが仏教を開く。同時期に孔子が儒家の教えを説く
- 前221年秦の始皇帝が中国を統一。郡県制・文字と度量衡の統一
- 前3世紀マウリヤ朝アショーカ王が仏教を保護し、国外へ布教
- 前2世紀漢の武帝が張騫を派遣。シルクロードが開ける
- 105年後漢の蔡倫が製紙法を改良する
- 1〜3世紀クシャーナ朝でガンダーラ美術と大乗仏教が発展
- 4〜6世紀グプタ朝。ヒンドゥー教が定着し、ゼロの概念が確立
日本史と並べてみる 中国が漢の全盛だったころ、日本は弥生時代。57年に奴国の王が後漢に使いを送り、金印を授かっています(志賀島出土)。中国の皇帝から称号をもらうことで国内での立場を強めるやり方は、東アジア共通の外交手法でした。
一問一答
- 仏教が、当時のインド社会のどんな仕組みへの異議として生まれましたか。
- 秦が短命に終わり、漢が長く続いたのはなぜですか。
- シルクロードで東から西へ伝わったものを三つ挙げてください。
解答を見る
- ヴァルナ制(生まれによる身分制度)と、バラモンによる祭式の絶対視。
- 秦は法による厳しい統制で反発を招いたが、漢は同じ中央集権に儒教という正当化の理念を組み合わせたから。
- 絹、紙、火薬(羅針盤・印刷術も可)。
STEP 5
中世
イスラーム世界 ── 商業と学問がつくった、巨大なネットワーク
目安 3日
このステップの到達点 ── イスラーム教の成り立ちと基本を偏見なく説明でき、中世において最も進んでいたのはヨーロッパではなくイスラーム世界だったという事実を、具体例とともに言える。
成立 ── 商人の町から始まった
アラビア半島のメッカは、隊商交易でにぎわう商業都市でした。富が集まる一方で貧富の差が広がり、部族どうしの争いも絶えません。この町の商人ムハンマドが610年ごろ、唯一神アッラーの啓示を受けたとして、偶像崇拝を否定し、神の前での平等と弱者の救済を説きはじめました。
既得権を脅かされたメッカの有力者に迫害され、622年にメディナへ移住します。これをヒジュラ(聖遷)といい、イスラーム暦の元年となりました。メディナで信者の共同体ウンマを築き、630年にメッカを無血で制圧。ムハンマドの死(632年)までにアラビア半島はほぼ統一されます。
教えの基本 ── 六信五行
イスラーム教徒(ムスリム)が信じる六つのこと(神・天使・啓典・預言者・来世・天命)と、行う五つのつとめを六信五行といいます。五行は、信仰告白・礼拝(1日5回)・喜捨・断食(ラマダーン)・巡礼。聖典はコーラン(クルアーン)で、神の言葉そのものとされます。
特徴は、宗教が同時に法であり、生活のきまりでもあることです。イスラーム法(シャリーア)は、礼拝から商取引、相続まで扱います。また、聖職者という特別な身分を置かず、神の前ではすべての信者が平等とされました。この分かりやすさと平等性、そして商人の宗教らしく交易の倫理を重んじたことが、急速な拡大の理由になります。
偏見なしに学ぶために ニュースで見聞きするイメージだけでイスラーム教を判断しないでください。世界のムスリムは約19億人、その大多数はアジア(インドネシア・パキスタン・インド・バングラデシュ)に住み、アラブ人は全体の2割ほどです。キリスト教・ユダヤ教と同じ神を信じる一神教であり、イエスも預言者の一人として敬われています。三つの宗教はいずれもエルサレムを聖地とし、その重なりが今日の中東問題の背景の一つになっています。
大帝国へ ── ウマイヤ朝とアッバース朝
ムハンマドの死後、後継者(カリフ)が共同体を率い、わずか100年ほどで西はイベリア半島、東は中央アジアに及ぶ大帝国が生まれました。ビザンツ帝国とササン朝ペルシアが長い戦争で疲弊していたこと、征服地の住民にとって税が軽くなる場合が多かったことが、急拡大を助けました。
- 610年ごろムハンマドが啓示を受け、イスラーム教を説きはじめる
- 622年ヒジュラ(聖遷)。イスラーム暦元年
- 661年ウマイヤ朝成立(都ダマスクス)。アラブ人優位の体制
- 711年イベリア半島に進出。732年トゥール・ポワティエ間の戦いで西進が止まる
- 750年アッバース朝成立。民族を問わない平等な体制へ
- 762年新都バグダード建設。人口100万を超える世界最大級の都市に
- 9世紀「知恵の館」でギリシャ語文献のアラビア語訳が大規模に進む
- 1258年モンゴル軍がバグダードを破壊。アッバース朝滅亡
なぜ学問が花開いたのか
アッバース朝の都バグダードは、当時世界で最も豊かな都市の一つでした。理由は位置です。地中海・インド洋・中央アジアの交易路が交わる場所にあり、金と情報が同時に集まりました。中国から伝わった製紙法が本を安くし、カリフはギリシャ・インド・ペルシアの書物を集めて翻訳させます。宗教が学問を禁じなかったこと、そして巡礼と交易で人が広く行き来したことが、知識の循環を生みました。
数学フワーリズミー
インド数字とゼロを導入し、代数学を体系化。「アルゴリズム」は彼の名に由来する。
医学イブン=シーナー
『医学典範』はヨーロッパの大学で数百年間、標準教科書として使われた。
哲学イブン=ルシュド
アリストテレス注釈でヨーロッパのスコラ学に決定的な影響を与えた。
歴史学イブン=ハルドゥーン
『歴史序説』で王朝の盛衰を法則として説明。社会科学の先駆と評価される。
ヨーロッパはイスラームから受け取った alcohol(アルコール)、algebra(代数)、sugar、cotton、magazine ── 英語には多くのアラビア語由来の単語があります。ギリシャの古典哲学も、いったんアラビア語に訳されて保存され、12世紀ごろにスペイン経由でヨーロッパに逆輸入されました。ルネサンスは、この「知の還流」なしにはありえませんでした。
その後 ── 多様化する広大な世界
やがてイスラーム世界の政治的な中心は複数に分かれます。トルコ系のセルジューク朝が11世紀に台頭して聖地を押さえたことが十字軍のきっかけとなり、13世紀にはモンゴルの侵攻を受けました。そして14世紀以降、オスマン帝国が長く西アジアからバルカン半島までを支配することになります(STEP 10)。イスラーム世界は一枚岩ではなく、スンナ派とシーア派の違いをはじめ、地域ごとに多様な姿を持っています。
日本史と並べてみる ムハンマドが布教を始めた610年ごろ、日本は飛鳥時代。聖徳太子(厩戸王)が冠位十二階や憲法十七条を定め、遣隋使を送っていたのとちょうど同じ時期です。同じ時代に、地球の反対側では新しい世界宗教が生まれていました。
一問一答
- ヒジュラとは何ですか。またそれが何の元年になりましたか。
- バグダードで学問が発展した理由を二つ挙げてください。
- ヨーロッパのルネサンスとイスラーム世界には、どんな関係がありますか。
解答を見る
- ムハンマドがメッカからメディナへ移住したこと。イスラーム暦の元年。
- 交易路が交わり富と情報が集まったこと、製紙法の伝来と国家的な翻訳事業(巡礼による人の往来も可)。
- ギリシャの古典がアラビア語に訳されて保存され、それがヨーロッパに逆輸入されてルネサンスの土台となった。
STEP 6
中世
中世ヨーロッパ ── 教会と領主が支えた、閉じた1000年
目安 4日
このステップの到達点 ── 封建制と荘園制の関係を図で説明でき、十字軍が「失敗したのに歴史を大きく動かした」理由を三つ言える。
西ローマ滅亡のあと ── ゲルマン人とフランク王国
4世紀後半、アジア系遊牧民フン人の圧迫を受けてゲルマン人の大移動が始まり、西ローマ帝国は崩れました。混乱のなかで台頭したのがフランク王国です。フランク王国は早くからローマ=カトリックに改宗したため、ローマ教会の後ろ盾を得ました。800年、教皇は国王カール大帝にローマ皇帝の冠を授けます(カールの戴冠)。
これは象徴的な出来事でした。ローマの伝統・キリスト教・ゲルマン人という三つの要素が合体し、「西ヨーロッパ世界」が誕生した瞬間とされます。同時に、教皇が皇帝に冠を授けるという形は、のちの教皇と皇帝の長い主導権争いの種にもなりました。
封建制と荘園制 ── 中世社会の二階建て構造
統一的な国家権力が弱く、外敵(ノルマン人・イスラーム勢力・マジャール人)の襲来が続くなかで、人びとは強い者に守ってもらうしかありませんでした。ここから中世特有の仕組みが生まれます。
- 封建制(上の階):国王や大領主が家臣に土地(封土)を与えて保護し、家臣は軍事的な奉仕で応える。契約に基づく双務的な主従関係で、主君が義務を果たさなければ家臣は従わなくてよかった
- 荘園制(下の階):領主の所領で農奴が耕作する。農奴は移動の自由がなく、賦役と貢納の義務を負い、領主裁判権に服した
そしてこの社会の全体を、カトリック教会が精神面から包み込んでいました。人びとは生まれて洗礼を受け、教会の暦で暮らし、死後の救いを教会に委ねます。教会は十分の一税を集め、広大な土地を持ち、王をも破門できる力を持ちました。
日本史と並べてみる 主君が土地を与え(御恩)、家臣が軍事で応える(奉公)── これは鎌倉幕府の御恩と奉公とそっくりです。世界史でこの二つを「封建制」と呼ぶのはそのためです。ただし違いもあります。ヨーロッパは契約の色が濃く、複数の主君に仕えることもありました。日本は主従の倫理・忠義が強調される傾向がありました。
教皇と皇帝の争い ── カノッサの屈辱
聖職者を任命する権利(聖職叙任権)をめぐって、教皇と神聖ローマ皇帝が激突します。1077年、破門された皇帝ハインリヒ4世が、雪の中を教皇グレゴリウス7世のもとへ赴き、3日間裸足で赦しを乞いました(カノッサの屈辱)。教皇権が皇帝権を上回った象徴的な事件として記憶されています。
十字軍 ── 失敗したのに世界を変えた遠征
1095年、聖地イェルサレムがセルジューク朝の支配下に入り、ビザンツ皇帝の救援要請を受けた教皇ウルバヌス2世が聖地回復を呼びかけました。1096年から約200年、7回以上にわたって十字軍が派遣されます。第1回で一時イェルサレムを奪回しますが、やがて奪い返され、第4回にいたっては同じキリスト教のコンスタンティノープルを攻略・略奪するという有様でした。宗教的な目的としては失敗です。
ところが、その副作用が中世を終わらせていきます。
- 教皇の権威が失墜した。呼びかけた事業が失敗したから
- 諸侯・騎士が没落した。遠征の費用と戦死で力を失い、相対的に国王の権力が強まった
- 東方との貿易が拡大した。ヴェネツィアやジェノヴァなどイタリアの港町が栄え、香辛料・絹・そしてイスラーム世界の学問がヨーロッパに流れ込んだ
この三つが、次のステップのルネサンスと主権国家への道を用意しました。「意図した目的」ではなく「意図しない副作用」が歴史を動かす ── 世界史の醍醐味です。
都市・大学・大聖堂
商業の復活とともに都市が成長し、商人と職人はギルドをつくって特権を守りました。「都市の空気は自由にする」といわれ、一定期間都市に住んだ農奴は自由身分になれる慣習もありました。12世紀にはボローニャ、パリ、オクスフォードなどに大学が生まれます(学生と教師の組合がその起源)。神学を頂点に据えて信仰と理性の調和を目指すスコラ学(トマス=アクィナス)が栄え、天にそびえるゴシック様式の大聖堂が建てられました。
マグナ=カルタ(大憲章・1215年・イングランド)史料
いかなる自由人も、その同輩の合法的裁判によるか、
または国法によるのでなければ、
逮捕・監禁され、あるいは財産を奪われることはない。
一般評議会の同意なくして、軍役代納金または援助金を課してはならない。
読みどころ
失政を重ねた国王ジョンに、貴族たちが認めさせた文書です。もとは貴族の特権を守るためのものでしたが、「王であっても法に従う」「課税には同意が必要」という二つの原則を明文化した点が決定的でした。これがのちの議会政治、そして近代の立憲主義の出発点になります。「代表なくして課税なし」(アメリカ独立革命)に、まっすぐつながる一文です。
中世の終わり ── 黒死病と百年戦争
14世紀、中央アジアから伝わった黒死病(ペスト)がヨーロッパを襲い、人口の3分の1前後が失われたと推定されています。労働力が激減した結果、農民の立場が強くなり、賃金が上がり、農奴解放が進みました。同時に、祈っても救われなかった経験は教会の権威をさらに傷つけます。
イギリスとフランスの百年戦争(1339〜1453年)では、ジャンヌ=ダルクの登場を機にフランスが盛り返しました。長い戦争で諸侯と騎士はいっそう没落し、鉄砲・大砲の登場が騎士の戦いを時代遅れにします。こうして国王が家臣団ではなく常備軍と官僚を持つ、中央集権的な国家への道が開かれました。1453年にはビザンツ帝国もオスマン帝国に滅ぼされ、中世は幕を閉じます。
- 375年ゲルマン人の大移動が始まる
- 800年カール大帝の戴冠。西ヨーロッパ世界の成立
- 1054年教会が東西に分裂(カトリックと正教会)
- 1077年カノッサの屈辱。教皇権の絶頂
- 1096年〜十字軍の遠征が始まる(〜1291年)
- 1215年マグナ=カルタ。「王も法に従う」
- 1347年〜黒死病の大流行。人口が激減し、農奴解放が進む
- 1339〜1453年百年戦争。王権が強まり、騎士が没落する
- 1453年ビザンツ帝国が滅亡。オスマン帝国がコンスタンティノープルを占領
一問一答
- ヨーロッパの封建制と日本の御恩と奉公の、共通点と違いを一つずつ挙げてください。
- 十字軍が結果としてもたらした変化を三つ挙げてください。
- 黒死病が農民の地位を高めたのはなぜですか。
解答を見る
- 共通点=土地を与える代わりに軍事的な奉仕を受ける主従関係。違い=ヨーロッパは双務的な契約の性格が強く、複数の主君に仕えることもあった。
- 教皇の権威の失墜、諸侯・騎士の没落と王権の伸長、東方貿易の拡大とイスラーム文化の流入。
- 人口が激減して労働力が不足し、農民の交渉力と賃金が上がったから。
STEP 7
中世
東アジアとモンゴル ── ユーラシアが一度だけ「一つ」になった時代
目安 4日
このステップの到達点 ── 科挙が何を変えたかを説明でき、モンゴル帝国がヨーロッパの近代を用意したという因果を、三つの発明の伝播でたどれる。
隋と唐 ── 試験で役人を選ぶという発明
589年、隋が約370年ぶりに中国を統一しました。隋は大運河で南北をつなぎ、そして科挙 ── 家柄によらず試験で役人を選ぶ制度 ── を始めます。これは世界史上きわめて画期的な発明でした。貴族の世襲を崩し、皇帝が直接優秀な人材を集められるようになったからです。ヨーロッパで能力主義の公務員試験が広まるのは、実に1000年以上あとのことになります。
隋は大工事と遠征で疲弊して倒れ、唐(618〜907年)が引き継ぎます。唐は律令にもとづく統治を完成させ、都長安は人口100万を超える国際都市となりました。ペルシア人・ソグド人・日本人が行き交い、ゾロアスター教やイスラーム教の寺院もありました。日本・朝鮮・ベトナムは唐の制度を取り入れ、漢字・儒教・仏教・律令を共有する「東アジア文化圏」が形づくられます。
宋 ── 世界に先がけた経済と技術
唐の滅亡後、宋(960〜1279年)は軍事より文治を重んじ、科挙で選ばれた官僚(士大夫)が政治を担いました。北方民族に圧迫され軍事的には弱かった一方、経済と技術は当時の世界最先端です。
- 火薬:兵器に応用され、のちに西へ伝わって騎士の時代を終わらせた
- 羅針盤:航海術を変え、のちの大航海時代を可能にした
- 印刷術:木版・活字により知識が広がり、のちに宗教改革の推進力となった
- 紙幣・都市:世界最初期の紙幣が流通し、開封や杭州は巨大な商業都市になった
三大発明はどこの発明か 「ルネサンスの三大発明」と呼ばれる火薬・羅針盤・活版印刷は、いずれも原型は中国で生まれ、イスラーム世界を経てヨーロッパで改良されたものです。世界史では、発明そのものより「誰がそれを何に使ったか」が結果を分けます。中国では祭礼の花火にも使われた火薬が、ヨーロッパでは大砲になり、城と騎士を過去のものにしました。
モンゴル帝国 ── 史上最大の陸の帝国
1206年、チンギス=ハンがモンゴル高原の諸部族を統一しました。騎射に長けた機動力、能力本位の軍組織、降伏すれば助命し抵抗すれば徹底的に破壊するという明快な方針で、モンゴルは驚異的な速さで拡大します。孫のフビライ=ハンは中国を征服して国号を元とし(1271年)、大都(いまの北京)を都としました。帝国は朝鮮半島から東ヨーロッパまでという、史上最大の陸続きの版図に達します。
破壊者としての側面は事実です。バグダードは1258年に破壊され、多くの都市が壊滅しました。しかし同時に、モンゴルは交易の保護者でもありました。全域に駅伝制(ジャムチ)を整え、通行証を持つ商人や使節の安全を保障したのです。その結果、ユーラシアは一時的に一つの通行圏になりました(パクス=モンゴリカ)。
マルコ=ポーロ『世界の記述(東方見聞録)』(13世紀末)史料
ジパングは、東方の海上にある大きな島である。
住民は色白く、礼儀正しい。
この島は莫大な金を産出し、国王の宮殿は屋根も床も、
すべて純金で覆われているという。
読みどころ
ヴェネツィアの商人マルコ=ポーロが元に滞在し、帰国後に口述したとされる書物です。彼自身は日本に行っておらず、この記述は伝聞であり誇張を含みます。しかし重要なのはこの本が200年後のヨーロッパで熱心に読まれたことです。コロンブスはこの本を愛読し、書き込みをしながら「黄金の国ジパング」を目指して西へ出航しました。結果としてたどり着いたのがアメリカ大陸です。一冊の旅行記が、世界史の進路を変えたのです。
モンゴルが運んだもの、運んでしまったもの
- 技術と知識:火薬・羅針盤・印刷術・製紙法が西へ。イスラームの天文学や医学が東へ
- 人と情報:マルコ=ポーロやイブン=バットゥータのような長距離の旅人が現れ、世界像が広がった
- 病気:交易路を通ってペストがヨーロッパへ運ばれたとされる。中世を終わらせた黒死病である
つまり、ヨーロッパの近代を用意した道具の多くは、モンゴルが開いた道を通って届いたということです。世界史の因果は、しばしばこれほど遠くまで届きます。
元のあと ── 明の海禁と、閉じる中国
元は財政難と反乱で衰え、1368年に明が成立します。明は皇帝独裁を強め、当初は鄭和に大艦隊を率いさせて東南アジア・インド・アフリカ東岸まで7回の大遠征を行いました(1405〜1433年)。コロンブスより約90年早く、規模ははるかに大きい航海です。
ところが明は、財政負担と北方防衛を理由にこの事業を打ち切り、民間の海外渡航を禁じる海禁政策をとりました。国家が管理する朝貢貿易だけを認めたのです。アジアが海から引いたその同じ時期に、ヨーロッパが海へ出ていった ── この対照が、次の数百年の力関係を大きく分けることになります。
「もし」を考えてみる もし明が遠征を続けていたら、世界の勢力図は違っていたかもしれません。ただし歴史は、必ずしも「進んだ技術を持つ側」が世界に出ていくとは限らないことも示しています。ヨーロッパが出ていったのは、技術で優れていたからというより、香辛料と金を求める切実な動機と、国どうしの激しい競争があったからでした。
- 589年隋が中国を統一。科挙と大運河
- 618年唐が成立。長安が国際都市として栄える
- 960年宋が成立。火薬・羅針盤・印刷術が発達する
- 1206年チンギス=ハンがモンゴルを統一
- 1258年モンゴル軍がバグダードを破壊。アッバース朝滅亡
- 1271年フビライが国号を元とする。パクス=モンゴリカ
- 1274・1281年元が日本に来襲(元寇)
- 1368年明が成立。1405年から鄭和の大航海(〜1433年)
日本史と並べてみる 元寇(1274年・1281年)は、世界史の側から見ればモンゴルの世界征服の一部です。日本史だけを読むと「神風が吹いた」で終わりがちですが、同時期に高麗も南宋もベトナムも攻められていました。そして元寇の恩賞を出せなかったことが御恩と奉公を崩し、鎌倉幕府の滅亡につながります。ユーラシアの地殻変動が、日本の政権交代を引き起こしたのです。
一問一答
- 科挙は、それまでの政治の何を変えましたか。
- モンゴル帝国が東西交流を活発にした具体的な仕組みは何ですか。
- 明が海禁政策をとったことは、その後の世界にどんな意味を持ちましたか。
解答を見る
- 家柄による世襲を崩し、試験の成績によって役人を登用できるようにした。
- 駅伝制(ジャムチ)を整え、通行証を持つ商人・使節の安全を保障したこと。
- アジアが海から手を引いた時期にヨーロッパが海へ進出し、以後の力関係が大きく分かれた。
STEP 8
近世
ルネサンスと宗教改革 ── 「人間」と「聖書」の再発見
目安 3日
このステップの到達点 ── ルネサンスがなぜイタリアから始まったのかを経済から説明でき、宗教改革が活版印刷なしには成立しなかった理由を言える。
ルネサンス ── なぜイタリアだったのか
ルネサンスとは「再生」の意味で、14〜16世紀に古代ギリシャ・ローマの文化を手本として人間らしさを見つめ直した動きです。よく「文化運動」と説明されますが、まずは経済の話として理解してください。イタリアの都市が最初になったのには、はっきりした理由があります。
- お金があった:十字軍以来の東方貿易で、ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェが巨富を蓄えていた
- 古典があった:もとローマ帝国の地であり、ビザンツ帝国の滅亡(1453年)で学者と写本が流入した
- 出す人がいた:フィレンツェのメディチ家のような大富豪が、芸術家を保護(パトロン)した
中世の芸術が神を描くためのものだったのに対し、ルネサンスは人間の肉体・感情・個性を正面から描きました。この人間中心の考え方を人文主義(ヒューマニズム)といいます。
レオナルド=ダ=ヴィンチ1452〜1519
「モナ=リザ」「最後の晩餐」。解剖学・工学にも通じた「万能人」の代表。
ミケランジェロ1475〜1564
「ダヴィデ像」、システィナ礼拝堂天井画。人体の力強さを彫刻と絵画で表現。
グーテンベルク1400頃〜1468
1450年ごろ活版印刷術を実用化。本の値段を激減させ、情報の伝わり方を変えた。
マキァヴェリ1469〜1527
『君主論』で、道徳から切り離して政治を分析。近代政治学の出発点とされる。
宗教改革 ── 一枚の紙が教会を割った
16世紀初め、ローマ教皇はサン=ピエトロ大聖堂の建築費を集めるため、贖宥状(免罪符)を大量に販売しました。「これを買えば罪の罰が軽くなる」というのです。1517年、ドイツの神学者ルターがこれに抗議して九十五カ条の論題を公表しました。
ルター『九十五カ条の論題』(1517年)より史料
第一条 われらの主イエス・キリストが「悔い改めよ」と言われたとき、
主は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうた。
第三十六条 真に悔い改めたキリスト者はすべて、贖宥状がなくとも、
罰と罪責からの完全な赦しを受けている。
読みどころ
ルターの主張の核心は、「救われるのは信仰によってであり、教会に払う金や善行によってではない」という点にあります。よりどころは聖書のみ。ここから、聖職者という特別な仲介者は要らない(万人祭司)という考えに進みます。カトリック教会の存在意義そのものを揺るがす主張でした。
なぜ今回は成功したのか ── 印刷術という増幅装置
教会を批判した人はルター以前にもいましたが、いずれも異端として処刑されて終わりました。ルターが違ったのは、グーテンベルクの活版印刷術があったことです。九十五カ条は数週間でドイツ中に広まり、彼が民衆の言葉に訳したドイツ語訳聖書は爆発的に読まれました。それまで聖書はラテン語で、聖職者しか読めなかったのです。
さらに、諸侯にとっては教会の富と権威を退けて自分の領内の支配を強める好機でもありました。信仰・技術・政治の思惑が重なり、改革は止まらなくなります。
いまに通じる話 新しい情報技術が、既存の権威を揺さぶる ── 活版印刷と宗教改革の関係は、インターネットやSNSが既存のメディアや政治に与えた影響としばしば比較されます。同時に、宗教改革は激しい対立と長い戦争も生みました。技術は、良い変化と悪い変化を同時に加速させるということも、あわせて覚えておいてください。
広がる改革と、カトリックの反撃
- カルヴァン(スイス):救われる者はあらかじめ決まっているという予定説を説き、職業は神から与えられた使命だとして勤勉と蓄財を肯定した。商工業者に広く受け入れられ、のちに資本主義の精神を準備したと論じられる
- イギリス国教会:国王ヘンリ8世が自らの離婚問題を機に教皇から独立。国王が教会の首長となった
- 対抗宗教改革:カトリック側も立て直しを図り、イエズス会(1534年)が海外布教に力を注いだ。ザビエルの来日(1549年)はこの流れである
宗教戦争と、主権国家体制の誕生
宗派の対立は各地で凄惨な戦争を生みました。とくにドイツを舞台にした三十年戦争(1618〜1648年)は国土を荒廃させ、人口を大きく減らします。これを終わらせたウェストファリア条約(1648年)で、各国の宗派選択の自由と領邦の主権が認められました。
この条約は世界史の大きな節目です。「教皇や皇帝といった上位の権威に従うヨーロッパ」から、「対等な主権国家が並び立つヨーロッパ」へと原理が変わったからです。国境で区切られた主権国家が国際関係の単位になる ── いまの国連や国際法の考え方は、ここに始まります。
- 14世紀〜イタリアでルネサンスが始まる
- 1450年ごろグーテンベルクが活版印刷術を実用化
- 1517年ルターが九十五カ条の論題を発表。宗教改革が始まる
- 1534年イギリス国教会の成立。イエズス会の結成
- 1549年ザビエルが日本に来てキリスト教を伝える
- 1618〜1648年三十年戦争
- 1648年ウェストファリア条約。主権国家体制が成立する
日本史と並べてみる ルターが宗教改革を始めた1517年は、日本では戦国時代のまっただ中。ザビエルの来日(1549年)と鉄砲伝来(1543年)は、どちらも大航海時代と対抗宗教改革の波が日本に届いた出来事です。織田信長がキリスト教を保護し仏教勢力と対立したことも、世界史の文脈に置くと見え方が変わります。
一問一答
- ルネサンスがイタリアから始まった経済的な理由は何ですか。
- ルターの改革が過去の批判者と違って成功した最大の要因は何ですか。
- ウェストファリア条約が世界史の節目とされるのはなぜですか。
解答を見る
- 東方貿易で富を蓄えた都市と、メディチ家のような芸術のパトロンが存在したから。
- 活版印刷術によって主張とドイツ語訳聖書が急速に広まったこと(諸侯の政治的思惑も可)。
- 上位の権威に従う体制が終わり、対等な主権国家が並び立つ国際秩序が始まったから。
STEP 9
近世
大航海時代 ── 世界が一つになり、同時に大きな傷を負った
目安 4日
このステップの到達点 ── ヨーロッパが海に出た動機を三つ挙げられ、「世界が一つになった」ことの光と影の両方を、具体例で説明できる。いまの南北格差の起点にあたるステップです。
なぜ海に出たのか ── 三つの動機
- 香辛料:肉の保存と調理に欠かせないこしょうなどは、当時ヨーロッパで同じ重さの銀に匹敵する高値だった。陸路はイスラーム商人とヴェネツィアを通るため、直接インドへ行けば莫大な利益になる
- 黄金と信仰:マルコ=ポーロの「黄金の国」への憧れ、そしてイスラーム勢力に対抗してキリスト教を広めたいという情熱(レコンキスタを終えたばかりのスペイン・ポルトガルはとくに強かった)
- できるようになった:羅針盤、大型帆船(カラベル船)、天文学と海図。技術がそろった
航路を開いた人びと
- 15世紀前半ポルトガルのエンリケ航海王子がアフリカ西岸の探検を組織的に支援
- 1492年コロンブスが大西洋を西へ横断し、カリブ海の島に到達
- 1498年ヴァスコ=ダ=ガマがアフリカ南端をまわりインドのカリカットに到達
- 1519〜1522年マゼランの一行が史上初の世界周航を達成(本人は途中で死亡)
- 1521年コルテスがアステカ王国を滅ぼす
- 1533年ピサロがインカ帝国を滅ぼす
- 1545年ポトシ銀山の開発が本格化。大量の銀が世界へ流れ出す
「発見」という言葉について 「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」という言い方は、いまでは慎重に扱われます。そこにはすでに数千万の人びとが暮らし、高度な文明を築いていたからです。ヨーロッパから見て「未知だった」だけで、この表現自体が一方の視点に立っていることを意識してください。近年は「到達」「接触」「遭遇」といった言葉が使われます。
アメリカ大陸で起きたこと
アステカもインカも、数百人規模のスペイン人によって短期間で崩壊しました。鉄製の武器・馬・大砲の差、内部対立の利用もありますが、決定的だったのは病気です。天然痘・はしか・インフルエンザに免疫のなかった先住民は、地域によっては人口の9割が失われたと推定されています。大量死は、多くの場合、戦闘より先に起きていました。
征服者は先住民を鉱山やプランテーションで酷使し、労働力が枯渇するとアフリカから奴隷を連れてきました。こうして成立したのが大西洋三角貿易です。
※ 現在のアメリカ大陸における人種構成、カリブ海諸国の経済構造、アフリカ諸国の発展の遅れ、そして根強い人種差別の問題は、いずれもこの三角貿易に直接つながっています。「歴史は過去の話」ではないことが、最もはっきり見える部分です。
ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(1552年)史料
これらの民は、この世で最もへりくだり、忍耐強く、おだやかな人びとである。
……しかしスペイン人は、彼らを羊の群れに襲いかかる狼のごとく扱った。
私がこれを書くのは、わが目で見たことを神に誓って述べるためである。
読みどころ
ラス=カサスはスペイン人の司祭で、みずから征服に加わった経験を持ちながら、先住民への虐待を国王に訴え続けました。同じ社会の内側から不正を告発する人がいたという事実は重要です。ただし彼も当初は、先住民の負担を減らすためにアフリカ人奴隷の導入を提案しており、のちに深く後悔しています。善意の人でも、時代の枠組みからは容易に自由になれないということも、この史料は教えてくれます。
ヨーロッパ経済の大転換
- 商業革命:貿易の中心が地中海から大西洋岸へ移った。イタリア諸都市は衰え、リスボン・アントウェルペン・のちにアムステルダムとロンドンが栄える
- 価格革命:アメリカの銀が大量に流入し、物価が2〜3倍に高騰した。固定地代に頼る封建領主は打撃を受け、商工業者は利益を得た。封建社会の解体が加速する
- 世界の一体化:メキシコの銀がスペインを経てアジアへ流れ、中国の絹や陶磁器と交換された。地球を一周する経済圏が初めて成立した
食卓の世界史 ── コロンブス交換
大陸間で作物と家畜が交換されたことをコロンブス交換といいます。これがなければ、いまの私たちの食卓はまったく違うものでした。
- アメリカ大陸 → 世界:じゃがいも、とうもろこし、トマト、とうがらし、さつまいも、カカオ、たばこ。じゃがいもとさつまいもはヨーロッパやアジアの人口を大きく増やした
- 世界 → アメリカ大陸:小麦、さとうきび、コーヒー、馬、牛。そして病原菌
身近な例で確かめる イタリア料理のトマトソース、ドイツのじゃがいも料理、韓国のキムチのとうがらし、日本の天ぷらのさつまいも ── これらはすべて16世紀以降に生まれた新しい味です。「伝統料理」の多くが、実は大航海時代の産物なのです。
日本史と並べてみる 1543年の鉄砲伝来(種子島)と1549年のザビエル来日は、この大航海時代の波が日本に届いた出来事です。南蛮貿易で日本は銀を輸出しました。当時の日本は世界の銀産出の3分の1近くを占めた銀大国(石見銀山)で、世界経済の重要な一角だったのです。江戸幕府の「鎖国」も、この世界的な波にどう向き合うかという選択でした。
一問一答
- ヨーロッパが大西洋に乗り出した動機を三つ挙げてください。
- アステカやインカが短期間で崩壊した最大の理由は何ですか。
- 価格革命がヨーロッパの封建領主に打撃を与えたのはなぜですか。
解答を見る
- 香辛料の直接取引による利益、キリスト教の布教と黄金への憧れ、羅針盤や大型帆船などの技術の進歩。
- 免疫のない天然痘などの感染症により人口が激減したこと。
- 銀の流入で物価が高騰した一方、地代収入は固定されていたため実質的な収入が目減りしたから。
STEP 10
近世
絶対王政とアジアの大帝国 ── まだアジアのほうが豊かだった時代
目安 3日
このステップの到達点 ── 絶対王政を支えた三つの柱を挙げられ、18世紀までは世界経済の中心がアジアだったことを具体例で説明できる。次のステップ(市民革命)の前提になります。
絶対王政 ── 王が国家そのものになる
中世の王は「諸侯の中で最も有力な者」にすぎませんでした。しかし十字軍と戦乱で諸侯が没落し、火砲の登場で城が無力になり、遠隔地貿易で王室が富を得ると、王権は飛躍的に強まります。16〜18世紀の、王が絶大な権力を握った体制を絶対王政といいます。支えたのは三つです。
- 常備軍:必要なときだけ集める騎士団ではなく、王が金で雇い続ける軍隊
- 官僚制:王に直属し、全国を一律に統治する役人の組織
- 王権神授説:王の権力は神から授かったものであり、誰も逆らえないという理論
そして財源として、輸出を増やし輸入を減らして金銀を蓄えようとする重商主義政策がとられ、貿易独占の特許会社や植民地の獲得が国家事業になりました。
フェリペ2世スペイン
「太陽の沈まぬ国」。しかし新大陸の銀に頼り、産業を育てず、やがて没落する。
ルイ14世フランス
「太陽王」。ヴェルサイユ宮殿を築き貴族を集めて飼い慣らした。度重なる戦争で財政は悪化。
ピョートル1世ロシア
西欧化を強行し、バルト海に新都サンクト=ペテルブルクを建設した。
エリザベス1世イギリス
スペイン無敵艦隊を破り(1588年)、東インド会社を設立。海洋帝国への出発点。
「朕は国家なり」は本当に言ったのか ルイ14世の言葉として有名ですが、同時代の確かな記録はなく、後世の伝承とされます。歴史では、こうした「有名すぎる名言」がしばしば後からつくられます。教科書に載っていても、出典を確かめる習慣を持ってください。歴史を学ぶうえで最も実用的なスキルの一つです。
オランダとイギリス ── 「会社」という新しい発明
スペインの支配に反乱を起こしたオランダは独立を達成し(1648年に国際的に承認)、17世紀に世界の海運と金融の中心となりました。その原動力が1602年設立のオランダ東インド会社です。多くの人から少しずつ出資を募り、危険な航海のリスクを分散し、利益を配当する ── 世界初の本格的な株式会社とされます。アムステルダムには証券取引所ができました。いまの株式市場の原型は、この時代の遠洋貿易のリスク管理から生まれたのです。
科学革命 ── 世界の見方が変わる
同じころ、自然を観察と数学で理解しようとする動きが起こりました。コペルニクスの地動説、ガリレイの望遠鏡による観測、そしてニュートンの万有引力の法則(『プリンキピア』1687年)。天も地も同じ法則で動いていることが示されたのです。
この衝撃は科学にとどまりません。「自然に法則があるなら、社会にも法則があるはずだ。ならば人間の理性で、よりよい社会を設計できるはずだ」 ── この発想が、次のステップの啓蒙思想と市民革命を生みます。
同じころのアジア ── 三つの大帝国
ここでバランスをとりましょう。ヨーロッパが海に出た時代、アジアはまだ圧倒的に豊かで強大でした。
順序を間違えないこと 「ヨーロッパが進んでいて、アジアが遅れていた」というイメージは、19世紀以降の姿を過去に投影したものです。18世紀まで、生活水準・都市の規模・工業製品の質のいずれでも、中国やインドはヨーロッパに劣っていませんでした。ヨーロッパの綿織物産業は、インドの高品質な綿布に対抗しようとして機械化に進んだのです。逆転はきわめて短期間に、次のステップで起こります。
- 1588年イギリスがスペイン無敵艦隊を破る
- 1602年オランダ東インド会社設立。株式会社と証券取引所の誕生
- 1643〜1715年フランスルイ14世の治世。絶対王政の典型
- 1687年ニュートン『プリンキピア』。科学革命の到達点
- 1520〜1566年オスマン帝国スレイマン1世の全盛期
- 1556〜1605年ムガル帝国アクバルの治世。宗教融和政策
- 17〜18世紀清の康熙帝・乾隆帝のもとで最盛期。世界最大の経済圏
日本史と並べてみる オランダ東インド会社が設立された1602年の翌年、徳川家康が江戸幕府を開いています。江戸時代の日本が長崎の出島でオランダとだけ貿易を続けたのは、オランダが布教をせず商売に徹する新教国だったからです。「鎖国」も、当時の世界情勢を踏まえた一つの選択でした。
一問一答
- 絶対王政を支えた三つの柱を挙げてください。
- オランダ東インド会社が画期的だったのはなぜですか。
- 18世紀の世界経済の中心はどこでしたか。根拠とともに答えてください。
解答を見る
- 常備軍、官僚制、王権神授説(財源としての重商主義も可)。
- 多数の出資者から資本を集めてリスクを分散する、世界初の本格的な株式会社だったから。
- アジア。清は世界のGDPのおよそ3割を占めたと推定され、インドの綿織物は世界最高の品質だった。
STEP 11
近代
市民革命 ── 国は王のものから、国民のものへ
目安 4日
このステップの到達点 ── イギリス・アメリカ・フランスの革命を共通の一本の流れとして説明でき、いまの憲法・選挙・人権がどの革命に由来するかを言える。現代の政治を理解する土台です。
思想が先にあった ── 啓蒙思想
科学革命が「世界には理性で理解できる法則がある」と示したあと、思想家たちは社会にも同じ問いを向けました。なぜ王が支配するのか。その根拠は本当にあるのか。
ロックイギリス・17世紀
人は生まれながらに生命・自由・財産の権利を持つ。政府はそれを守るために契約でつくられたもので、守らない政府には抵抗できる(抵抗権)。
モンテスキューフランス・18世紀
『法の精神』。権力を立法・行政・司法に分けて互いに抑制させる三権分立を説いた。
ルソーフランス・18世紀
『社会契約論』。主権は人民にあり、政治は人民の一般意志にもとづくべきだとした(人民主権)。
ヴォルテールフランス・18世紀
教会の不寛容と身分特権を痛烈に批判し、言論の自由と寛容を訴えた。
この四人の考えは、いまの日本国憲法にもそのまま流れ込んでいます。国民主権はルソー、三権分立はモンテスキュー、基本的人権はロックに由来すると考えて差し支えありません。
① イギリス ── 二度の革命で議会が勝った
国王が議会の同意なく課税し、専制を強めたことに議会が反発し、ピューリタン革命(1642〜1649年)が起こって国王チャールズ1世が処刑されました。しかし指導者クロムウェルの厳格な軍事独裁に人びとは疲れ、王政が復活します。
再び専制的な王が現れると、議会は1688年、国王を追放してオランダから新しい王を迎えました。一滴の血も流れなかったため名誉革命と呼ばれます。翌1689年の権利の章典で、議会の同意なしに法律の停止・課税・常備軍の維持はできないと定められました。ここに、「君臨すれども統治せず」の立憲君主政と議会主権が確立します。マグナ=カルタから始まった流れの、一つの到達点です。
② アメリカ ── 「代表なくして課税なし」
イギリスは、フランスとの戦争で膨らんだ財政赤字を植民地への課税で埋めようとしました(印紙法、茶法など)。植民地側は、本国議会に自分たちの代表を送れないのに課税されるのはおかしいと反発します。ボストン茶会事件を経て対立は戦争になり、1776年7月4日、独立宣言が発表されました。
アメリカ独立宣言(1776年7月4日)史料
われわれは、以下の事実を自明のことと信ずる。
すなわち、すべての人は平等につくられ、
造物主によって、生命・自由・幸福の追求を含む
一定の譲ることのできない権利を与えられている。
これらの権利を確保するために、人びとのあいだに政府がつくられ、
その正当な権力は、被治者の同意に由来する。
いかなる形態の政府であれ、この目的を破壊するものとなったときには、
人民はそれを改廃し、新たな政府を組織する権利を有する。
読みどころ
起草したジェファソンがロックの思想をほぼそのまま用いていることが分かります。「政府は人びとの同意でつくられ、目的を果たさなければ取り替えてよい」── 思想が現実の建国の理念になった瞬間です。ただし、この「すべての人」に奴隷にされていた人びとと女性は含まれていませんでした。その矛盾を正すために、アメリカは南北戦争と公民権運動という長い道のりを歩むことになります(STEP 16)。
フランスなどの支援も得て、1783年にイギリスは独立を承認。1787年に合衆国憲法が制定され、三権分立と連邦制を備えた世界初の近代的な成文憲法をもつ共和国が誕生しました。
③ フランス ── 身分制そのものを壊した革命
フランスでは、人口の2%に満たない聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)が広大な土地と免税特権を持ち、残る98%の平民(第三身分)が税を負担していました。度重なる戦争とヴェルサイユの浪費で財政は破綻寸前。1789年、国王が課税のため三部会を招集したことをきっかけに、第三身分が国民議会を結成し、7月14日には民衆がバスティーユ牢獄を襲撃します。
人間および市民の権利の宣言(フランス人権宣言・1789年)史料
第一条 人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する。
社会的差別は、共同の利益にもとづくものでなければ設けられない。
第三条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。
第十七条 所有権は神聖かつ不可侵の権利である。
読みどころ
第一条が身分制の全面否定、第三条が国民主権です。ここで宣言された自由・平等・国民主権・私有財産の尊重は、その後の世界中の憲法の原型となりました。フランス革命が世界史で特別扱いされるのは、王を倒しただけでなく、生まれによる身分という仕組みそのものを廃止したからです。
革命の暗い面も見る 革命は理想通りには進みませんでした。内外の敵に囲まれた危機のなかでロベスピエールらによる恐怖政治が行われ、多くの人が裁判らしい裁判もなく処刑されます。「自由のため」という理由で自由が奪われるのは、歴史でくり返される皮肉です。革命を賛美するだけでも、否定するだけでも、学んだことにはなりません。
ナポレオン ── 革命を広めた皇帝
混乱を収拾したのが軍人ナポレオンでした。1804年に皇帝となり、ヨーロッパの大半を支配します。彼はナポレオン法典を制定し、法の前の平等・私有財産の不可侵・契約の自由という革命の成果を明文化しました。皮肉なことに、征服戦争によってこの原則がヨーロッパ中に広まったのです。同時に、支配された側には「自分たちの民族の国をつくりたい」というナショナリズムが芽生えました。これが19世紀のドイツ・イタリア統一につながります。
ナポレオンは1815年にワーテルローで敗れ、ウィーン会議で革命前の秩序を復活させる体制(ウィーン体制)がつくられました。しかしいったん広がった自由と平等の理念は、もう消せませんでした。19世紀のヨーロッパは、この理念をめぐる革命と反動のくり返しになります。
- 1642〜1649年ピューリタン革命。国王が処刑される
- 1688〜1689年名誉革命と権利の章典。立憲君主政と議会主権が確立
- 1776年アメリカ独立宣言。1783年に独立が承認される
- 1787年合衆国憲法制定。世界初の近代的成文憲法
- 1789年フランス革命勃発。人権宣言が採択される
- 1793年国王ルイ16世が処刑される。恐怖政治へ
- 1804年ナポレオンが皇帝となり、ナポレオン法典を制定
- 1814〜1815年ウィーン会議。ナポレオン戦争後の秩序が定まる
日本史と並べてみる フランス革命(1789年)は、日本では寛政の改革のころ。松平定信が倹約令を出していた時期に、ヨーロッパでは身分制が崩れていました。約80年後、日本も明治維新で身分制を廃止します(四民平等)。五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」は、この世界的な流れの日本版と読むこともできます。
一問一答
- アメリカ独立宣言に最も強く影響を与えた思想家は誰ですか。
- 名誉革命が「名誉」と呼ばれるのはなぜですか。また何が確立しましたか。
- フランス革命が世界史で特別に重視されるのはなぜですか。
解答を見る
- ロック(自然権と抵抗権の考え方)。
- 流血なしに国王の交代が実現したから。権利の章典により議会主権と立憲君主政が確立した。
- 王政を倒しただけでなく、生まれによる身分制そのものを否定し、国民主権と人権を宣言したから。
STEP 12
近代
産業革命 ── 人類の暮らしを、農耕以来はじめて変えた
目安 3日
このステップの到達点 ── 産業革命がなぜイギリスで始まったかを四つの条件で説明でき、それが生んだ豊かさと社会問題の両方を語れる。いまの経済のしくみの出発点です。
人類史で二度目の大転換
約1万年前の農耕の開始が一度目の大転換だとすれば、18世紀後半の産業革命は二度目です。それまで、モノをつくる力は人と家畜の筋肉と、水車・風車に限られていました。石炭を燃やして蒸気の力を取り出す機械の登場は、この上限を取り払いました。人類が使えるエネルギーの量が、桁違いに増えたのです。
なぜイギリスからだったのか ── 四つの条件
- 資本:三角貿易と植民地貿易で蓄えた莫大な資金があった
- 資源:良質な石炭と鉄鉱石が、しかも近い場所で採れた
- 労働力:第2次囲い込みで農地を追われた農民が、都市に流れ込んでいた
- 市場と競争:広大な植民地という売り先があり、インド産の高品質な綿布に対抗する必要があった
さらに、名誉革命以来の安定した政治と、特許制度により発明が利益になる仕組みも重要でした。条件がそろった場所で、技術が一気に実用化されたのです。
綿から鉄へ、そして鉄道へ
- 1733年ジョン=ケイの飛び杼。織る速度が上がり、糸が足りなくなる
- 1760〜70年代紡績機の相次ぐ発明。今度は糸が余り、また織機が改良される(技術の連鎖)
- 1769年ワットが蒸気機関を大幅に改良。あらゆる機械の動力になる
- 1825年スティーヴンソンの蒸気機関車が実用化。鉄道の時代へ
- 1830年代〜鉄道網と蒸気船が世界を縮める。電信が情報を高速化する
- 1851年ロンドン万国博覧会。イギリスは「世界の工場」と呼ばれる
技術は連鎖する 織る機械が速くなると糸が足りなくなり、糸をつくる機械が生まれる。すると今度は糸が余り、また織機が改良される。動力が必要になり蒸気機関が実用化され、機械をつくるために鉄と工作機械が発達し、石炭と製品を運ぶために鉄道が敷かれる ── 一つの発明が次の必要を生む連鎖が、産業革命の正体です。いまのIT・AIの発展も、同じ構造で進んでいます。
社会はどう変わったか
生産力は飛躍的に高まり、長い目で見れば人びとの生活水準は上がりました。しかし、その過程で生まれた問題も深刻でした。
- 都市化:工場のある都市に人口が集中し、上下水道が追いつかず、コレラが流行した
- 労働問題:1日14〜16時間の労働、6〜7歳の児童労働、女性の低賃金労働、危険な作業環境
- 新しい階級:工場と機械を持つ資本家と、自分の労働力を売って生きる労働者に社会が分かれた
- 抵抗:機械打ちこわし(ラダイト運動)、労働組合の結成、選挙権を求めるチャーティスト運動
やがて工場法によって児童労働が制限され、労働時間の上限が定められ、労働組合が合法化されていきます。いまの労働基準法や週休制、義務教育は、この時代の悲惨さへの反省から生まれました。
二つの経済思想 ── 資本主義と社会主義
この新しい社会をどう理解するかをめぐって、対照的な二つの考え方が生まれます。
アダム=スミス『国富論』1776年
各人が自由に利益を追求すれば、「見えざる手」に導かれて社会全体も豊かになる。政府の介入は最小限に。自由主義経済の古典。
マルクス・エンゲルス『共産党宣言』1848年
資本主義は必然的に貧富の差を広げる。労働者が団結して生産手段を共有すべきだと説いた。のちのロシア革命と社会主義国家の理論的支柱。
マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(1848年)史料
いままでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。
……近代のブルジョア社会は、階級対立を廃止しはしなかった。
それはただ、新しい階級、新しい抑圧の条件、
新しい闘争の形態を、古いものに置きかえたにすぎない。
読みどころ
歴史を「持つ者と持たざる者の争い」として一本の法則で説明しようとした点が、当時としては衝撃的でした。この考え方はのちにロシア革命・中国革命・冷戦へとつながり、20世紀の世界地図を塗り分けます。賛成するかどうかは別として、20世紀を理解するには避けて通れない文書です。
そして、世界の力関係が逆転した
産業革命の最も重大な結果は、ヨーロッパとそれ以外の地域の力の差が、わずか100年で決定的に開いたことです。機械で大量生産された安い綿布はインドの伝統的な織物業を壊滅させ、蒸気船と鉄道と最新の兵器は、それまで対等以上だったアジアの大国を圧倒しました。この力の差が、次のステップの帝国主義を生みます。
日本史と並べてみる イギリスが「世界の工場」と呼ばれた1851年の2年後、ペリーが浦賀に来航します(1853年)。黒船は蒸気船 ── まさに産業革命の産物でした。明治政府が富国強兵・殖産興業を掲げて官営富岡製糸場を建てたのは、この100年の遅れを最短で埋めようとしたものです。非西洋で唯一それに成功した点が、日本が世界史で注目される理由になります。
一問一答
- 産業革命がイギリスで始まった条件を四つ挙げてください。
- 産業革命によって社会に生まれた二つの新しい階級は何ですか。
- 産業革命が世界の力関係にもたらした最大の変化は何ですか。
解答を見る
- 貿易で蓄えた資本、石炭と鉄の資源、囲い込みで生まれた労働力、植民地という市場と競争。
- 工場や機械を所有する資本家と、労働力を売って賃金を得る労働者。
- ヨーロッパとそれ以外の地域の生産力・軍事力の差が決定的に開き、帝国主義の条件が整ったこと。
STEP 13
近代
帝国主義 ── 世界が数か国に塗り分けられた50年
目安 4日
このステップの到達点 ── 帝国主義の動機を経済・政治・思想の三面から説明でき、いまの国境紛争や南北問題の多くがこの時代に由来することを具体例で言える。
なぜ植民地を求めたのか
19世紀後半、欧米列強と日本が競って植民地を広げた動きを帝国主義といいます。動機は三つの層で理解してください。
- 経済:工場に必要な原料(綿花・ゴム・石油)の確保、製品を売る市場、そして余った資本の投資先
- 政治・軍事:国どうしの競争。ライバルが取る前に取らねばという論理と、航路を守る軍港・補給地の必要
- 思想:社会進化論の悪用。「優れた民族が劣った民族を導くのは義務だ」という考えが、支配を正当化した
言葉のごまかしに注意する 当時は「文明化の使命」「未開の地を開く」といった言葉が使われました。しかし実際に行われたのは、資源の収奪、現地産業の破壊、そして抵抗の武力鎮圧でした。ある行為を正当化する立派な言葉が同時代に用意されていることは、歴史を読むときに最も注意すべき点の一つです。
アジア① 中国 ── アヘン戦争から半植民地化へ
イギリスは中国から大量の茶を輸入し、代金の銀が流出していました。この赤字を埋めるため、インドで栽培したアヘン(麻薬)を中国に密輸します。中毒の蔓延と銀の流出に苦しんだ清が、林則徐にアヘンを没収・廃棄させると、イギリスは自由貿易の妨害を理由に軍艦を送りました(アヘン戦争 1840〜42年)。
林則徐がヴィクトリア女王に宛てた書簡(1839年・要旨)史料
聞くところによれば、貴国においてもアヘンの吸引は厳しく禁じられている。
それは、その害の大きさを知っているからにほかならない。
自国に害があると知りながら、なぜそれを他国に及ぼすのか。
おのれの欲せざるところを、人に施すべきではない。
読みどころ
清の官僚・林則徐が、イギリス女王に宛てて送ろうとした書簡です(女王に届いたかは定かではありません)。「自分の国では禁じているものを、なぜ他国には売るのか」という問いは、道理として完璧です。それでも戦争は起き、清は敗れました。正しさが力の前に無力になることがある ── 近代の国際関係の厳しさを、これほど端的に示す史料はありません。
敗れた清は南京条約(1842年)で香港を割譲し、5港を開き、関税自主権を失い、領事裁判権を認めました。不平等条約の始まりです。その後も太平天国の乱、アロー戦争、日清戦争(1894〜95年)の敗北と続き、列強が中国各地に勢力範囲を設定します。1900年の義和団事件を経て、1911年の辛亥革命で清朝は倒れ、翌年アジア初の共和国・中華民国が成立しました。
アジア② インド ── 「会社」による支配から、女王の帝国へ
インドは、まずイギリス東インド会社という一企業に支配されました。プラッシーの戦い(1757年)で勢力を確立し、徴税権を握り、綿織物の輸出国だったインドを綿花を輸出しイギリス製の綿布を買わされる国に変えてしまいます。伝統的な織物業は壊滅しました。
1857年、傭兵(シパーヒー)の反乱をきっかけに大規模なインド大反乱が起こります。鎮圧後、イギリスはムガル皇帝を廃し、東インド会社を解散して、1877年にヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。分割統治(宗教や民族の違いを利用して住民を分断する手法)が用いられ、その後遺症は1947年のインド・パキスタン分離独立と、いまも続く対立にまで及んでいます。
アフリカ ── 地図の上で引かれた国境
19世紀後半、探検と医学の進歩(マラリア対策)を背景に、列強はアフリカ内陸へ進出します。衝突を避けるため1884〜85年にベルリン会議が開かれ、アフリカ人が一人もいない会議室で分割のルールが決められました。20年ほどのうちに、エチオピアとリベリアを除くアフリカ全土が植民地化されます。
なぜアフリカの国境は直線が多いのか 地図を見ると、アフリカには定規で引いたような直線の国境がいくつもあります。これは、現地の民族分布や生活圏を無視して、緯度・経度で分けた結果です。一つの民族が複数の国に分断され、逆に対立する民族が同じ国に押し込められました。独立後のアフリカで内戦が絶えなかった大きな要因の一つが、この線引きにあります。今日のニュースの背景が、140年前の会議にあるのです。
抵抗と、目覚めるナショナリズム
支配は一方的に受け入れられたわけではありません。各地で武力抵抗が起こり、やがて近代教育を受けた現地の知識人が、支配者の言葉(自由・平等・国民主権)を使って独立を要求しはじめます。インド国民会議、ベトナムの独立運動、オスマン帝国の青年トルコ革命、イランの立憲革命 ── 支配される側が、支配する側の思想を武器として学び取ったのです。これが20世紀の民族独立運動につながります。
- 1757年プラッシーの戦い。イギリスがインド支配の足がかりを得る
- 1840〜1842年アヘン戦争。南京条約で香港割譲・不平等条約
- 1857〜1859年インド大反乱。1877年にインド帝国が成立
- 1861〜1865年アメリカ南北戦争。奴隷解放宣言(1863年)
- 1871年ドイツ帝国成立。イタリア統一と合わせ、後発国が競争に加わる
- 1884〜1885年ベルリン会議。アフリカ分割のルールが決められる
- 1894〜1895年日清戦争。日本が台湾を領有し、列強の競争に加わる
- 1904〜1905年日露戦争。アジアの国が大国ロシアに勝ち、各地の独立運動を刺激する
- 1911年辛亥革命。清朝が倒れ、翌年に中華民国が成立
日本史と並べてみる 日本が明治維新(1868年)を成し遂げたのは、まさにこの帝国主義の荒波のただ中でした。不平等条約を結ばされた側から出発し、富国強兵で近代化を進め、やがて自らも植民地を持つ側にまわりました(台湾・朝鮮)。日露戦争の勝利はアジア各地の独立運動を勇気づけた一方、韓国併合(1910年)は現在まで続く歴史認識の問題を残しています。「植民地にされかけた国が、植民地を持つ国になった」という二重性を、事実として押さえておいてください。
一問一答
- イギリスがアヘンを中国に売った直接の理由は何ですか。
- アフリカに直線的な国境が多いのはなぜですか。
- 植民地の知識人が独立を要求するとき、よりどころにした思想は何ですか。
解答を見る
- 茶の輸入で銀が流出していたため、その貿易赤字を埋めるため。
- ベルリン会議などで、現地の民族分布を無視して緯度・経度で分割されたから。
- ヨーロッパ由来の自由・平等・国民主権(民族自決)の思想。
STEP 14
近代
第一次世界大戦と世界恐慌 ── 総力戦が社会を作り変えた
目安 4日
このステップの到達点 ── 総力戦という言葉の意味を説明でき、第一次世界大戦の終わらせ方が第二次世界大戦を準備してしまった因果をたどれる。
なぜ大戦になったのか
帝国主義の競争が激しくなるにつれ、ヨーロッパは二つの同盟に分かれて対峙しました(ドイツ中心の三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商)。とくに緊張が高かったのがオスマン帝国の衰退で民族対立が渦巻くバルカン半島で、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれます。
1914年6月、オーストリアの皇位継承者夫妻がサライェヴォでセルビア人青年に暗殺されました。一地方の事件が、同盟関係の連鎖によってわずか1か月余りで全ヨーロッパの戦争に拡大します。誰も望んでいなかった全面戦争が、仕組みによって起きてしまった ── これが第一次世界大戦の最も重い教訓です。
総力戦 ── 戦争のかたちが変わった
短期決戦の予想は外れ、西部戦線は塹壕を掘り合って動かない消耗戦になりました。機関銃・戦車・毒ガス・飛行機・潜水艦が投入され、死者はおよそ1000万人に達します。そして戦争は前線だけのものではなくなりました。
- 国民の総動員:国家が経済全体を統制し、国民を工場と戦場に配置した
- 女性の社会進出:男性が出征したため女性が工場や事務を担い、戦後に各国で女性参政権が実現する大きな要因となった
- 植民地の動員:インド・アフリカから多くの兵士と労働者が動員され、戦後の独立要求の根拠となった
- 宣伝(プロパガンダ):国民の戦意を保つため、情報が国家によって管理された
これが総力戦です。国民全員が戦争に組み込まれる代わりに、戦後は国民全員が政治的な発言権を求めることになりました。皮肉なことに、大戦は民主化を一気に進めたのです。
ロシア革命 ── 世界初の社会主義国家
戦争の負担に耐えかねたロシアでは、1917年に革命が起こって帝政が倒れ、レーニン率いるボリシェヴィキが権力を握りました。「平和・パン・土地」を掲げて戦争から離脱し、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立します。マルクスの理論が現実の国家になったことは、世界に巨大な衝撃を与えました。資本主義か社会主義かという対立軸が、以後70年以上、世界を規定します。
終わらせ方の失敗 ── ヴェルサイユ体制
1919年のヴェルサイユ条約で、ドイツはすべての植民地と領土の一部を失い、軍備を厳しく制限され、支払い不可能なほど巨額の賠償金を課されました。アメリカ大統領ウィルソンが唱えた「十四カ条」にもとづき、史上初の国際平和機構国際連盟も発足します(1920年)。
ウィルソン「十四カ条の平和原則」(1918年)より要旨史料
一、講和は公開で行われ、秘密外交を廃すること。
二、公海の自由。
三、経済障壁の撤廃。
四、軍備の縮小。
五、植民地問題の公正な解決にあたっては、住民の利害を等しく考慮すること。
十四、国家の大小を問わず政治的独立と領土保全を相互に保障する、
国際的な連合組織を設立すること。
読みどころ
秘密外交の廃止、軍縮、そして国際機構の設立 ── いまの国連につながる理想が並びます。しかし「民族自決」の原則が適用されたのは主に敗戦国の支配下にあったヨーロッパの地域だけで、戦勝国の植民地であるアジア・アフリカにはほとんど適用されませんでした。この二重基準への失望が、各地の民族運動を激化させます。さらに、提唱国のアメリカ自身が議会の反対で国際連盟に加盟しませんでした。
国際連盟が機能しなかった理由 ①アメリカが不参加、ソ連とドイツも当初は排除されていた。②全会一致が原則で、重要な決定ができなかった。③侵略国を止める軍事力を持たなかった。この三つの反省が、のちの国際連合(多数決・安全保障理事会・国連軍)の設計に生かされます。失敗から次の制度が生まれるという点で、とても重要な比較です。
世界恐慌 ── 民主主義が壊れるとき
1920年代のアメリカは空前の繁栄を謳歌しましたが、1929年10月、ニューヨーク株式市場の大暴落から世界恐慌が始まりました。銀行と企業が連鎖倒産し、アメリカの失業率は25%に達します。世界に張りめぐらされた経済の網を通じて、不況は全世界に広がりました。各国の対応は分かれます。
1933年、ドイツでヒトラー率いるナチ党が政権を獲得します。重要なのは、ナチ党がクーデターではなく選挙で第一党になったという事実です。人びとは、失業と屈辱的な賠償に苦しむなかで、強力な指導者と単純明快な答えを選びました。民主主義は、経済の破綻と将来への絶望のなかで、内側から壊れることがある ── 20世紀最大の教訓の一つです。
- 1914年サライェヴォ事件から第一次世界大戦が始まる
- 1917年ロシア革命。世界初の社会主義政権が生まれる
- 1918年大戦終結。死者はおよそ1000万人
- 1919年ヴェルサイユ条約。ドイツに巨額の賠償金
- 1920年国際連盟発足(アメリカは不参加)
- 1929年世界恐慌が始まる
- 1933年ドイツでヒトラーが政権を握る。アメリカはニューディール政策へ
日本史と並べてみる 第一次世界大戦中、日本は好景気に沸き(大戦景気)、戦後は大正デモクラシーのなかで普通選挙法(1925年)が実現しました。しかし世界恐慌と、生糸の対米輸出の激減が農村を直撃し、政党政治への不信が高まります。満州事変(1931年)から国際連盟脱退(1933年)へという流れは、世界史の同じ地殻変動のなかで起きた出来事です。
一問一答
- 総力戦が、戦後の社会にもたらした変化を二つ挙げてください。
- 国際連盟が侵略を止められなかった理由を三つ挙げてください。
- ヒトラーはどのように政権を獲得しましたか。
解答を見る
- 女性参政権の実現など民主化の進展、植民地の人びとの独立要求の高まり(国家による経済統制も可)。
- アメリカが不参加だったこと、全会一致が原則で決定できなかったこと、制裁のための軍事力を持たなかったこと。
- クーデターではなく、恐慌下の選挙で第一党となって合法的に政権を獲得した。
STEP 15
現代
第二次世界大戦と冷戦 ── 人類が学んだこと、学べなかったこと
目安 4日
このステップの到達点 ── 第二次世界大戦が第一次と決定的に違った点を三つ挙げられ、国連と世界人権宣言が何への反省から生まれたかを説明できる。冷戦の構造も理解する。
戦争へ ── 止められなかった侵略
1930年代、日本の満州事変、イタリアのエチオピア侵攻、ドイツの再軍備とオーストリア併合が続きます。イギリス・フランスは戦争を避けたい一心で譲歩を重ねました(宥和政策)。しかし譲歩はさらなる要求を招き、1939年9月、独ソ不可侵条約を結んだドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まります。
ドイツは電撃戦でフランスを降伏させ、1941年には独ソ戦を開始。同年12月、日本が真珠湾を攻撃してアメリカが参戦し、戦争は文字通り世界規模になりました。1945年5月にドイツが、8月に日本が降伏します。
第一次大戦と決定的に違った三点
- 民間人の犠牲が軍人を上回った:都市への無差別爆撃、原子爆弾、飢餓。死者は全体で5000万〜8000万人と推定され、その多くが非戦闘員だった
- ジェノサイド(大量虐殺):ナチス=ドイツが国家の政策として約600万人のユダヤ人を組織的に殺害した(ホロコースト)。近代的な官僚制と技術が虐殺に用いられた
- 核兵器の登場:広島・長崎への原爆投下により、人類が自らを絶滅させうる手段を持った
この主題を学ぶときに ここは、事実の重さゆえに心が苦しくなる部分です。無理に速く読む必要はありません。同時に、加害の事実から目をそらさないことと、特定の民族や国民全体を責めないことを、両立させて考えてみてください。ホロコーストを実行したのは「ドイツ人という民族」ではなく、そのような政策を選び、実行し、あるいは黙認した人びとの集まりでした。ふつうの人が、状況によって加担しうるという問いこそが、この歴史から現在に持ち帰るべきものです。
反省から生まれた仕組み
戦争が終わる前から、二度と同じことを起こさないための設計が始まっていました。
- 国際連合(1945年):国際連盟の失敗を踏まえ、多数決の採用、安全保障理事会による強制措置、国連軍の規定を備えた。ただし五大国(米・英・仏・ソ/露・中)に拒否権を与えたことが、いまも機能不全の原因になっている
- ブレトン=ウッズ体制(1944年):IMF・世界銀行・のちのGATT。ブロック経済が戦争を招いたという反省から、自由な国際経済のルールをつくった
- 世界人権宣言(1948年):人権は国内問題ではなく、国際社会が守るべきものだと初めて宣言した
- ニュルンベルク・東京の裁判:戦争指導者個人の責任を問う「人道に対する罪」の概念が生まれた(裁判の公正さについては議論もある)
世界人権宣言(1948年・国際連合総会採択)史料
第一条 すべての人間は、生まれながらにして自由であり、
かつ、尊厳と権利について平等である。
人間は、理性と良心とを授けられており、
たがいに同胞の精神をもって行動しなければならない。
読みどころ
フランス人権宣言(1789年)の第一条と読み比べてください。言葉はよく似ています。違うのは、これが一国の宣言ではなく世界の国々が共同で採択したこと、そして「すべての人間」に本当にすべての人を含めようとしたことです。159年かけて、人類は同じ文をもう一度、より広い範囲で書き直しました。権利は最初から与えられていたのではなく、少しずつ勝ち取られてきたのです。
冷戦 ── 直接戦わない戦争
戦後、アメリカを中心とする資本主義・自由主義陣営(西側)と、ソ連を中心とする社会主義陣営(東側)が対立します。核兵器を持つ両国が直接戦えば人類が滅びるため、直接の戦争は避けられました。これを冷戦といいます。
「冷たい戦争」は誰にとって冷たかったか 米ソが直接戦わなかったという意味で「冷たい」戦争ですが、朝鮮半島・ベトナム・アフガニスタン・中南米・アフリカでは、実際に人が大量に死ぬ熱い戦争が代理で戦われました。「冷戦」という言葉は、あくまで大国から見た呼び方です。歴史の用語が誰の視点でつくられているかを問うのは、とても大切な習慣です。
- 1939年ドイツのポーランド侵攻。第二次世界大戦が始まる
- 1941年独ソ戦開始。日本の真珠湾攻撃でアメリカが参戦
- 1945年ドイツ降伏(5月)、広島・長崎への原爆投下と日本降伏(8月)。国際連合発足(10月)
- 1948年世界人権宣言が採択される
- 1949年NATO結成。中華人民共和国成立。ソ連が核実験に成功
- 1950〜1953年朝鮮戦争。朝鮮半島の分断が固定化する
- 1962年キューバ危機。核戦争の瀬戸際から緊張緩和へ
日本史と並べてみる 敗戦後の日本は、GHQのもとで日本国憲法(1946年公布)、財閥解体、農地改革という大改革を経験しました。そして朝鮮戦争の特需が経済復興の起爆剤となり、1951年のサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約で西側陣営の一員として独立します。戦後日本の歩みは、冷戦という世界史の枠組みの中にすっぽり収まっています。
一問一答
- 第二次世界大戦が第一次と決定的に違った点を三つ挙げてください。
- 国際連合が国際連盟の失敗をどう改めたか、二つ挙げてください。
- 「冷戦」という呼び方に注意が必要なのはなぜですか。
解答を見る
- 民間人の犠牲が軍人を上回ったこと、国家によるジェノサイド(ホロコースト)が行われたこと、核兵器が使用されたこと。
- 全会一致をやめて多数決を採用したこと、安全保障理事会による強制措置と軍事力の規定を設けたこと。
- 米ソは直接戦わなかったが、アジア・アフリカ・中南米では代理戦争で多くの人が実際に死んだから。
STEP 16
現代
独立・冷戦終結・グローバル化 ── ここから今朝のニュースにつながる
目安 4日
このステップの到達点 ── 現在のニュース(紛争・難民・貿易摩擦・気候変動)を、これまでの16ステップの延長として説明できる。世界史を学ぶ目的そのものにあたる、最後のステップです。
植民地が独立していく
二つの大戦で宗主国が疲弊し、大戦に協力した植民地の人びとが当然の権利として独立を求めました。1947年にインドとパキスタンが分離独立し、1960年には一年で17か国が独立して「アフリカの年」と呼ばれます。1955年にはインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開かれ、反植民地主義・平和共存・非同盟が確認されました。
ガンディーインド
非暴力・不服従を貫き、塩の行進などでイギリス支配に抵抗。独立後の分裂に心を痛め、凶弾に倒れた。
ネルーインド
初代首相。非同盟諸国の中心として、米ソどちらにも属さない道を模索した。
ネルソン=マンデラ南アフリカ
アパルトヘイト(人種隔離政策)と闘い27年間投獄。釈放後、報復ではなく和解を選び大統領となった。
キング牧師アメリカ
非暴力の公民権運動を率い、1964年の公民権法制定に道を開いた。ガンディーの影響を受けている。
ただし独立は終点ではありませんでした。植民地時代に引かれた国境と、単一の産品に依存させられた経済構造が残り、多くの新興国が内戦と貧困に苦しみます。豊かな北の国と貧しい南の国の格差 ── 南北問題 ── は、STEP 9と13で見た歴史の直接の帰結です。
権利の輪が広がっていく
20世紀後半は、「すべての人」の範囲がようやく実質的に広がっていった時代でもあります。アメリカでは法律上の人種差別を撤廃する公民権運動が実を結び(1964年公民権法)、南アフリカではアパルトヘイトが1990年代に撤廃されました。女性参政権が世界に広がり、子どもの権利条約(1989年)や障害者権利条約(2006年)が結ばれます。古代ギリシャの「市民」から始まった権利の輪は、2500年かけてここまで広がりました。そして、まだ広がる途中です。
冷戦の終わり
ソ連は計画経済の行き詰まりとアフガニスタン侵攻の負担で疲弊し、1985年に登場したゴルバチョフが改革(ペレストロイカ)と情報公開(グラスノスチ)を進めます。この緩みのなかで東欧諸国が次々と民主化し、1989年11月、ベルリンの壁が崩壊。翌1990年に東西ドイツが統一され、1991年にソ連が解体して冷戦は終わりました。
一方、中国は政治体制を維持したまま経済だけを開放する道を選びます。文化大革命(1966〜76年)の混乱を経て、鄧小平のもとで1978年から改革開放が始まり、驚異的な成長で世界第2位の経済大国となりました。「経済が発展すれば民主化する」という西側の予想は、そのとおりにはなりませんでした。この事実が、現在の米中関係の背景にあります。
グローバル化と、その反動
- 統合:EU(1993年発足)、WTO、自由貿易協定。人・モノ・カネ・情報が国境を越えて動く
- 技術:インターネット、スマートフォン、そして生成AI。情報の伝わり方が変わると社会が変わることは、活版印刷の例(STEP 8)で学んだとおり
- 反動:格差の拡大、産業の空洞化、移民をめぐる摩擦から、自国優先の主張が各国で強まった
- 新しい脅威:国境で区切れない問題 ── 気候変動、感染症のパンデミック、テロ、サイバー攻撃
国際連合憲章 前文(1945年)より史料
われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた
戦争の惨害から将来の世代を救い、
基本的人権と人間の尊厳及び価値と、
男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し……
これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
読みどころ
「われら一生のうちに二度まで」── 二つの世界大戦を実際に経験した世代が書いた文章です。国連はいまも多くの限界を抱え、拒否権によって機能しないこともあります。それでも、この前文が掲げた目標は、いまだに人類が到達できていない課題そのものです。世界史の最後の史料として、この一文を覚えておいてください。
いまのニュースを、世界史で読む
最後に、このページの目的を果たしましょう。ニュースに出てくる出来事の多くは、これまでのステップに根がはえています。
※ ニュースを見たら、「これはどのステップの話だろう」と自問してみてください。それができるようになったとき、世界史はあなたにとって暗記科目ではなく、現在を読むための道具になります。
- 1947年インド・パキスタンが分離独立する
- 1955年バンドンでアジア・アフリカ会議。平和十原則
- 1960年「アフリカの年」。17か国が独立
- 1964年アメリカで公民権法が成立する
- 1978年中国が改革開放を開始する
- 1989年ベルリンの壁が崩壊。冷戦の終結へ
- 1991年ソ連が解体する
- 1994年南アフリカでマンデラが大統領に。アパルトヘイトの終わり
- 2001年アメリカ同時多発テロ。「テロとの戦い」の時代へ
- 2008年世界金融危機。グローバル経済の連鎖が改めて示される
- 2015年パリ協定。気候変動対策の国際的枠組み
- 2020年新型コロナウイルスの世界的流行。国境を越える課題の時代
日本史と並べてみる 日本の高度経済成長(1955〜73年)は、冷戦下で西側の一員として安全保障をアメリカに依存し、経済に集中できたことと切り離せません。1956年の国連加盟、1972年の沖縄返還と日中国交正常化、1990年代のバブル崩壊 ──
いずれも世界史の潮目と連動しています。
ゼロから学ぶ日本史のSTEP 14と並べて読んでみてください。
一問一答
- 「アフリカの年」とは何年で、何が起きた年ですか。
- 冷戦が終結した直接のきっかけとなった出来事を二つ挙げてください。
- 現在のアフリカの紛争の一因が19世紀にあるといえるのはなぜですか。
解答を見る
- 1960年。アフリカで17か国が一斉に独立した年。
- ゴルバチョフの改革(ペレストロイカ)と、1989年のベルリンの壁の崩壊(1991年のソ連解体も可)。
- ベルリン会議などで民族分布を無視した国境が引かれ、独立後もその線が引き継がれたから。