STEP 0
準備
日本史の地図を頭に入れる ── 時代の名前と順番
目安 1〜2日
このステップの到達点 ── 時代の名前を古い順に言えて、「その時代は誰が国を動かしていたか」を一言で答えられる。ここができていれば、あとの14ステップは地図に地名を書き込んでいく作業になります。
まず、時代の名前を順番に
日本史の時代の名前は、多くが政治の中心地から付いています。奈良に都があったから奈良時代、京都の平安京にあったから平安時代、鎌倉に幕府があったから鎌倉時代です。江戸時代は江戸(いまの東京)に幕府があった時代、というわけです。名前の由来を知るだけで、順番は覚えやすくなります。
- 旧石器 → 縄文 → 弥生 → 古墳(土器や墓など、出土品から付いた名前)
- 飛鳥 → 奈良 → 平安(都の場所から付いた名前)
- 鎌倉 → 室町 → 安土桃山 → 江戸(幕府や城の場所から付いた名前)
- 明治 → 大正 → 昭和 → 平成 → 令和(元号がそのまま時代の名前)
「誰が主役か」で4つに束ねる
時代の名前を覚えたら、次は主役で束ねます。日本史はざっくり、豪族の時代 →
天皇・貴族の時代 → 武士の時代 → 国民の時代 と主役が移り変わってきました。
新しい時代が始まるのは、たいてい前の主役の仕組みがうまくいかなくなったときです。この「なぜ交代したか」を追うのが、日本史のいちばん面白いところです。
- 〜3世紀むらが争い、くにになる。豪族が各地を治める
- 4〜7世紀ヤマト政権が各地の豪族をまとめる
- 7〜8世紀律令によって天皇を頂点とする国家が完成
- 9〜12世紀藤原氏など貴族が実権を握る(摂関政治・院政)
- 12〜19世紀鎌倉・室町・江戸と、約680年にわたる武士の時代
- 1868年〜明治維新。近代国家をつくり、やがて国民が主権者となる
年号は「あとから」でいい
初学者がまずやるべきは、年号の暗記ではなく順番と因果の理解です。「応仁の乱は1467年」と言えても、「なぜ起きて、その後どうなったか」を言えなければ知識として使えません。逆に流れが分かっていれば、年号は自然と引っかかるようになります。このページでは、各ステップの年表に特に重要なものだけオレンジの印を付けました。まずはそこだけ覚えてください。
覚え方のコツ 年号のごろ合わせは、意味を理解したあとの最後の仕上げに使うと効きます。先にごろ合わせだけ覚えると、数字は出てくるのに中身を説明できない、という状態になりがちです。
歴史の調べ方 ── 何を根拠にしているのか
歴史は「昔の人が書き残したもの(文献史料)」と「土の中から出てきたもの(考古資料)」から組み立てられています。だから、新しい遺跡が見つかれば教科書は書き換わります。「聖徳太子」の表記が「厩戸王(うまやどのおう)」と併記されるようになったのも、研究が進んだ結果です。
歴史は書き換わるもの 大人が習った内容と、いま子どもが習う内容は違うことがあります。「鎌倉幕府は1192年」「最古の貨幣は和同開珎」なども見直されました。古い知識を責める必要はなく、更新すればよいだけです。
気をつけたいこと 歴史の解釈、とくに近現代のできごとについては、立場によって評価が分かれるものがあります。このページは、事実の流れをできるだけ中立に示すことを目指しています。評価が分かれる点は「分かれている」と書きますので、最終的な判断はご自身で史料にあたって考えてください。
一問一答
- 「奈良時代」「鎌倉時代」という名前は、何から付けられていますか。
- 武士が政治の主役だったのは、およそ何年間ですか。
- 歴史を組み立てる2種類の材料を答えてください。
解答を見る
- 政治の中心地(都や幕府の置かれた場所)から。
- 1185年ごろから1867年まで、およそ680年間。
- 文献史料(書き残されたもの)と考古資料(発掘されたもの)。
STEP 1
古代
旧石器・縄文時代 ── 一万年つづいた、争いの少ない暮らし
目安 3日
このステップの到達点 ── 縄文時代の人びとが何を食べ、どこに住み、なぜ大きな争いをしなかったかを説明できる。「縄文=原始的で遅れている」というイメージを、事実で更新します。
日本列島に人が来たころ
いまから約3万8000年前、氷期で海面が低く、日本列島は大陸と陸続きに近い状態でした。人びとはナウマンゾウやオオツノジカを追って移動し、打ち欠いてつくった打製石器を使っていました。これが旧石器時代です。日本に旧石器時代があったことは長く否定されていましたが、1946年、行商をしながら独学で考古学を続けた相沢忠洋が群馬県の岩宿遺跡で関東ローム層から石器を発見し、歴史が書き換わりました。
縄文時代 ── 土器と定住のはじまり
約1万数千年前、氷期が終わって気候が暖かくなると、木の実の豊かな森が広がり、海面が上がって入り江が増えました。食べ物が一年を通じて手に入るようになったため、人びとは移動をやめて定住を始めます。このころ使われた、縄を転がした文様のある土器から縄文時代と呼ばれます。
- 住まい:地面を掘り下げて屋根をかけた竪穴住居。数軒〜数十軒が集まってむらをつくった
- 食べ物:どんぐり・くるみなどの木の実、しか・いのしし、魚や貝。食べたあとの貝がらを捨てた場所が貝塚
- 道具:土器で煮炊きができるようになり、あくの強い木の実も食べられるようになった
- 祈り:土偶(多くは女性をかたどる)で豊かな実りや安産を祈った
- 約3万8000年前日本列島に人類が住みはじめる(旧石器時代)
- 約1万3000年前気候が暖かくなり縄文時代が始まる。土器の使用と定住
- 約5500年前青森県・三内丸山遺跡で大規模な集落が営まれる(〜約4000年前)
- 1877年アメリカ人モースが大森貝塚を発掘。日本の考古学が始まる
- 1946年相沢忠洋が岩宿遺跡を発見。日本の旧石器時代が証明される
なぜ「争いが少なかった」といえるのか
縄文時代の人骨には、武器による傷が見つかることがきわめて少ないことが分かっています。理由は、蓄えるほどの余りがなかったためと考えられています。木の実や魚は長く保存しにくく、貧富の差も生まれにくい。奪う理由がなければ、戦いも起きにくいのです。これは裏返せば、次の弥生時代に戦争が始まる理由の説明にもなります。
三内丸山遺跡がすごい理由 青森県のこの遺跡では、直径1メートルの柱を立てた大型建物、栗の栽培、遠く新潟のひすいや北海道の黒曜石が見つかっています。縄文時代にすでに広域の交易があったということです。「原始的で自給自足」というイメージは、事実と合いません。
よくある誤解 「縄文人は狩りだけで暮らしていた」は正確ではありません。栗やひょうたんなど植物の管理・栽培は行われていました。ただし、水田による本格的な米づくりは弥生時代からです。ここを混同しないでください。
一問一答
- 縄文時代の人びとが住んだ、地面を掘り下げた住居を何といいますか。
- 食べ物のかすや貝がらを捨てた場所を何といいますか。
- 縄文時代に大きな争いが少なかったのはなぜだと考えられていますか。
解答を見る
- 竪穴住居(たてあなじゅうきょ)。
- 貝塚(かいづか)。
- 長く保存できる余分な食料がなく、貧富の差が生まれにくかったため。
STEP 2
古代
弥生時代 ── 米づくりが、貧富の差と戦争を生んだ
目安 3日
このステップの到達点 ── 稲作 → 蓄え → 貧富の差 → 争い → くにの誕生 という一本の因果を、自分の言葉で説明できる。日本史で最初に出てくる、いちばん大事な「なぜ」です。
稲作が変えたもの
紀元前4世紀ごろ(近年は前10世紀ごろとする説も有力)、大陸から北部九州に水田による稲作が伝わり、東へ広がりました。米は長く保存できるという、それまでの食べ物にない性質を持っています。ここからすべてが動き出します。
- 米は貯蔵できる → 高床倉庫にたくわえる
- たくわえの多い人と少ない人ができる → 貧富の差が生まれる
- たくわえと水田・水は奪う価値がある → むら同士の争いが起きる
- 勝ったむらが負けたむらを従える → 大きなくにと身分ができる
実際、この時代の遺跡には、まわりに濠(ほり)や柵をめぐらせた環濠集落が現れ、矢じりの刺さった人骨も見つかります。戦争の始まりです。佐賀県の吉野ヶ里遺跡がその代表で、静岡県の登呂遺跡では大規模な水田の跡が確認されています。
金属器の登場
稲作とほぼ同時に、青銅器と鉄器が伝わりました。使い分けが特徴的です。青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)は主に祭りの道具として、鉄器は実用の農具や武器として使われました。青銅は美しいが柔らかく、鉄は硬いという性質の違いによります。
- 前4世紀ごろ大陸から稲作と金属器が伝わり、弥生時代が始まる
- 57年倭の奴国の王が後漢に使いを送り、金印「漢委奴国王」を授かる(志賀島で出土)
- 107年倭国王・帥升(すいしょう)らが後漢に使いを送る
- 2世紀後半倭国大乱。争いのすえ卑弥呼が王に立てられる
- 239年卑弥呼が魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡100枚を授かる
邪馬台国と卑弥呼
中国の歴史書『魏志』倭人伝には、30ほどのくにをまとめた邪馬台国の女王卑弥呼のことが記されています。卑弥呼は「鬼道(きどう)」と呼ばれるまじないで人びとをまとめ、政治は弟が補佐したとされます。中国の皇帝から称号をもらうことで、国内での自分の立場を強くしたのがポイントです。
『魏志』倭人伝(3世紀・中国の歴史書)史料
倭人は帯方の東南大海の中に在り……
その国、本亦男子を以て王と為す。住まること七、八十年。
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰う。
現代語訳(要旨)
倭人は帯方郡の東南の海の中にいる。……その国はもともと男性を王としており、七、八十年つづいた。だが倭国が乱れて何年も攻め合ったため、皆で一人の女性を立てて王とした。名を卑弥呼という。
邪馬台国はどこにあったのか 現在も決着していません。大きく畿内(奈良県)説と九州説があります。奈良県の纒向(まきむく)遺跡が有力視される一方、『魏志』倭人伝に書かれた方角と距離のとおり進むと九州の南の海上に出てしまうという難点もあり、議論が続いています。「決まっていない」ことを知っているのが正しい理解です。
一問一答
- 稲作が始まったことで社会に生まれた、それまでなかったものを2つ挙げてください。
- まわりを濠や柵で囲んだ、争いに備えた集落を何といいますか。
- 卑弥呼が中国の皇帝から称号を授かったのは、何のためですか。
解答を見る
- 貧富の差(身分の差)と、むら同士の争い(戦争)。
- 環濠集落(かんごうしゅうらく)。
- 中国の権威を借りて、国内での自分の立場を強くするため。
STEP 3
古代
古墳時代 ── 巨大な墓が語る、ヤマト政権の力
目安 3日
このステップの到達点 ── なぜ巨大な古墳がつくられたのかを「権力の見せかた」として説明でき、渡来人が日本にもたらしたものを3つ挙げられる。
古墳は「力の証明書」だった
3世紀後半から、王や豪族の墓として古墳がつくられるようになります。とくに前が四角く後ろが丸い前方後円墳は日本独特の形です。最大のものは大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)で、全長約486メートル。これだけの土を運ぶには、のべ何百万人もの労働力が必要でした。つまり古墳の大きさは、そのまま人を動員できる力の大きさを示しています。
そして重要なのは、同じ形の古墳が東北南部から九州まで広がっていることです。これは、奈良盆地を本拠とするヤマト政権の影響力が全国に及んでいったことを示します。地方の豪族は、ヤマト政権の形式にならった墓をつくることで、その傘下に入ったことを表明したと考えられています。
- 3世紀後半前方後円墳がつくられ始める。ヤマト政権が形成される
- 5世紀大仙陵古墳が築かれる。倭の五王が中国の南朝に使いを送る
- 5〜6世紀渡来人により漢字・儒教・須恵器・機織りなどの技術が伝わる
- 538年(552年説も)百済から仏教が公式に伝えられる(仏教公伝)
- 6世紀後半仏教の受け入れをめぐり蘇我氏と物部氏が対立、蘇我氏が勝つ
埴輪と、古墳から分かること
古墳のまわりには埴輪(はにわ)が並べられました。円筒形のものが基本ですが、人・馬・家・船をかたどったものもあり、当時の衣服・武具・住まいを知る貴重な手がかりになっています。文字の記録がほとんどない時代を、私たちは出土品から読み解いているわけです。
渡来人がもたらしたもの
朝鮮半島や中国から移り住んだ人びとを渡来人といいます。彼らが伝えた技術は、その後の日本を決定的に変えました。
漢字文字
記録が残せるようになり、政治の仕組みが飛躍的に高度化した。
仏教宗教
538年(一説に552年)に百済から伝来。のちの飛鳥文化・国家事業の中心となる。
須恵器・鉄器技術
高温で焼く硬い土器、進んだ鉄の加工技術。生産力が大きく上がった。
儒教・機織り学問・産業
上下の秩序を説く思想と、質の高い布づくりの技術。
「仁徳天皇陵」と呼ばないことがある理由 埋葬されている人物が誰かは、実は確定していません。そのため学術的には所在地をとって大仙陵古墳と呼びます。2019年に「百舌鳥(もず)・古市古墳群」として世界文化遺産に登録されました。
一問一答
- 日本独特の、前が四角く後ろが丸い古墳の形を何といいますか。
- 同じ形の古墳が全国に広がったことは、何を示していますか。
- 渡来人が伝えたものを3つ挙げてください。
解答を見る
- 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)。
- ヤマト政権の影響力が全国に及んでいったこと。
- 漢字、仏教、須恵器や鉄の加工技術(儒教、機織りなども可)。
STEP 4
古代
飛鳥時代 ── 「豪族の国」から「天皇の国」へつくり変える
目安 4日
このステップの到達点 ── 聖徳太子の政治・大化の改新・大宝律令が、すべて「豪族の力を弱め、天皇を中心にまとめる」という一つの目的でつながっていると説明できる。
なぜ改革が必要だったのか
6世紀の日本は、有力な豪族が土地と人を私有し、政治を左右する状態でした。しかも大陸では隋(のち唐)という強大な統一帝国が生まれ、朝鮮半島にも緊張が走ります。ばらばらのままでは国が保たない ── ここから、約100年がかりの国家改造が始まります。飛鳥時代の出来事は、すべてこの一点に向かっています。
1. 聖徳太子(厩戸王)と推古天皇の政治
592年、女性の推古天皇が即位し、おいの厩戸王(聖徳太子)が蘇我馬子とともに政治にあたりました。その柱は次の3つです。
- 603年 冠位十二階:家柄ではなく能力で位を与える。豪族の世襲を崩す一歩
- 604年 憲法十七条:役人の心得を示す。「和を大切に」「天皇の命令には従え」と説き、天皇中心の考えを広めた
- 607年 遣隋使:小野妹子を派遣。隋に対等の立場で国書を送り、進んだ制度と文化を学ぼうとした
憲法十七条(604年)/『日本書紀』史料
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さから)ふること無きを宗と為よ。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。
三に曰く、詔を承りては必ず謹め。
現代語訳(要旨)
第一に、人と争わず調和を大切にせよ。第二に、仏教(仏・その教え・僧)を厚く敬え。第三に、天皇の命令を受けたら必ずつつしんで従え。── 豪族たちに「争うな、天皇に従え」と説いた文書だと読むと、意図がはっきりします。
2. 大化の改新(645年〜)
それでも蘇我氏の力は強大でした。645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が蘇我入鹿を宮中で討ち、蘇我本宗家を滅ぼします(乙巳の変)。翌年に出された改新の詔の柱が公地公民です。豪族が私有していた土地と人民を、すべて国のもの=天皇のものとする、という宣言でした。
3. 白村江の敗戦と壬申の乱
663年、日本は百済の復興を助けようと出兵し、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗します。この危機感が、防衛(水城・防人)と国内改革をいっそう加速させました。672年には皇位継承をめぐる壬申の乱が起こり、勝った天武天皇のもとで天皇の権威は決定的に高まります。
4. 大宝律令(701年)── 完成
そして701年、大宝律令が完成します。律は刑罰のきまり、令は政治のきまりです。ここで、二官八省の役所、全国を国・郡・里に分ける地方制度、戸籍にもとづいて口分田を配る班田収授法、租・調・庸の税制がそろい、律令国家が完成しました。飛鳥時代の100年は、この一点に向かっていたのです。
- 592年推古天皇が即位。翌年、厩戸王(聖徳太子)が政治に参加
- 603・604年冠位十二階/憲法十七条
- 607年小野妹子を遣隋使として派遣。法隆寺が建てられる
- 645年乙巳の変。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒し、大化の改新が始まる
- 663年白村江の戦いで唐・新羅に大敗
- 672年壬申の乱。勝利した天武天皇が権力を集中させる
- 701年大宝律令が完成。律令国家のしくみが整う
飛鳥文化 ── 日本初の仏教文化
この時代の文化を飛鳥文化といいます。仏教を中心に、中国・朝鮮だけでなくインドやペルシアの影響も受けた国際色が特徴です。法隆寺は現存する世界最古の木造建築とされ、釈迦三尊像・百済観音像などを伝えています。
「聖徳太子」と「厩戸王」 「聖徳太子」は後世におくられた呼び名で、当時は厩戸王などと呼ばれていました。近年の教科書では両方を併記することが増えています。また、業績のすべてが一人の手によるものか、蘇我馬子ら周囲の働きをどう見るかについては議論があります。
混同注意 遣隋使(607年〜)と遣唐使(630年〜)は別物です。隋が滅んで唐になったので、送り先の名前が変わったと覚えると間違えません。
一問一答
- 冠位十二階は、何を基準に位を与える制度でしたか。
- 645年に蘇我氏を倒した2人の人物は誰ですか。
- 「公地公民」とはどういう方針ですか。
- 大宝律令の「律」と「令」は、それぞれ何のきまりですか。
解答を見る
- 家柄ではなく、個人の能力・功績。
- 中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)。
- 豪族が私有していた土地と人民を、すべて国(天皇)のものとする方針。
- 律=刑罰のきまり、令=政治・行政のきまり。
STEP 5
古代
奈良時代 ── 律令国家の完成と、早くも始まった崩れ
目安 4日
このステップの到達点 ── 墾田永年私財法がなぜ「公地公民の終わりの始まり」なのかを説明できる。ここが、次の平安時代(貴族の時代)へつながる分かれ目です。
平城京 ── 唐の都をまねた計画都市
710年、元明天皇が奈良に平城京を開きます。唐の長安をモデルにした、碁盤の目のような計画都市でした。人口は約10万人。役所と市が置かれ、和同開珎などの貨幣も使われました。ここから784年に長岡京へ移るまでの約74年間が奈良時代です。
農民の負担 ── 制度が重すぎた
律令制では、6歳以上の男女に口分田が与えられ、死ぬと国に返す決まりでした(班田収授法)。そのかわり負担も重く、次のようなものがありました。
※ 負担の中心は成人男性でした。そのため戸籍で性別や年齢をいつわる者、口分田を捨てて逃げる者が増え、制度は次第に立ちゆかなくなります。
公地公民が、わずか数十年で崩れる
人口が増え、逃亡も増えると、配る口分田が足りなくなりました。そこで朝廷は開墾を奨励します。
- 723年 三世一身法:新しく開墾した土地を3代のあいだ私有してよい
- 743年 墾田永年私財法:開墾した土地は永久に私有してよい
これは苦肉の策でしたが、結果は決定的でした。財力のある貴族や大寺院が農民を使って大規模に開墾し、私有地=荘園を広げていきます。「土地はすべて国のもの」という公地公民の原則は、ここで事実上くずれたのです。以後400年、日本の政治は「荘園を誰が握るか」で動いていきます。
- 710年平城京に都を移す(元明天皇)
- 712・720年『古事記』『日本書紀』が完成。国のなりたちを記す
- 723年三世一身法。開墾地の3代私有を認める
- 741年聖武天皇が国分寺・国分尼寺の建立を命じる
- 743年墾田永年私財法と大仏造立の詔。公地公民がくずれ始める
- 752年東大寺で大仏開眼供養が行われる
- 753年唐の僧鑑真が来日。唐招提寺を開く
- 784年桓武天皇が長岡京に遷都し、奈良時代が終わる
聖武天皇と天平文化
聖武天皇の時代は、伝染病の流行や貴族の反乱が相次ぎました。天皇は仏教の力で国を守ろう(鎮護国家)と考え、全国に国分寺・国分尼寺を、都には東大寺と大仏をつくらせます。大仏づくりには、民衆に慕われていた僧行基の協力が欠かせませんでした。この時代の、遣唐使がもたらした国際色ゆたかな仏教文化を天平文化といいます。正倉院にはペルシアやインド由来の宝物が伝えられ、「シルクロードの終着駅」と呼ばれます。
聖武天皇701〜756
大仏と国分寺をつくらせた天皇。仏教で国を安定させようとした。
行基668〜749
各地で橋や池をつくり民衆に慕われた僧。大仏造立に協力した。
鑑真688〜763
5度の失敗と失明を越えて来日し、正式な戒律を伝えた唐の高僧。
『万葉集』8世紀後半
天皇から農民・防人まで、約4500首を収めた最古の歌集。
ごろ合わせ 平城京は「なんと(710)大きな平城京」。ただし、なぜ移ったのか(律令国家にふさわしい都が必要だった)を言えるほうが大事です。
一問一答
- 6歳以上の人に与えられ、死ぬと国に返す土地を何といいますか。
- 743年の墾田永年私財法は、何を認めた法律ですか。
- その結果、貴族や寺院が広げた私有地を何といいますか。
- 聖武天皇が大仏をつくらせたねらいは何ですか。
解答を見る
- 口分田(くぶんでん)。
- 新しく開墾した土地を永久に私有してよい、ということ。
- 荘園(しょうえん)。
- 仏教の力で伝染病や反乱をしずめ、国を安定させるため(鎮護国家)。
STEP 6
古代
平安時代 ── 貴族が栄え、その足もとで武士が育つ400年
目安 5日
このステップの到達点 ── 摂関政治 → 院政 → 武士の台頭 という400年の流れを一続きで語れる。日本史でいちばん長い時代であり、次の「武士の時代」の準備期間でもあります。
平安京への遷都(794年)
794年、桓武天皇が都を京都の平安京に移しました。ねらいは、力を持ちすぎた奈良の大寺院を政治から切り離し、天皇の力を立て直すことです。桓武天皇はまた、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて東北の蝦夷(えみし)との戦いを進め、支配地域を広げました。
摂関政治 ── 藤原氏はどうやって権力を握ったか
9世紀以降、政治の実権は藤原氏が握ります。その方法はきわめてシンプルでした。
- 自分の娘を天皇のきさきにする
- 生まれた子(孫)を次の天皇に立てる
- 幼い天皇の摂政、成人後は関白として、祖父の立場で政治を代行する
これを摂関政治といい、藤原道長とその子頼通のころ(11世紀前半)に全盛を迎えます。道長は4人の娘を天皇のきさきにしました。有名な「この世をば我が世とぞ思ふ……」の歌は、そのときの満足を詠んだものです。
藤原道長の歌(1018年)/『小右記』史料
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
現代語訳と背景
「この世は自分のためにあるようなものだ。満月に欠けたところがないように、私の望みも何一つ欠けていない」。三人目の娘が天皇のきさきになった祝いの席で詠まれたとされ、摂関政治の絶頂を象徴する歌として知られます。日記に書き留めたのはライバルの藤原実資でした。
国風文化 ── 遣唐使の停止が生んだもの
894年、菅原道真の意見によって遣唐使が停止されます(唐の衰えと危険が理由)。大陸の文化が入りにくくなったことで、日本の風土や感性に合った文化が育ちました。これが国風文化です。象徴はかな文字の発達で、これにより日本語をそのまま書き表せるようになり、女性による文学が花開きました。
紫式部『源氏物語』
光源氏を主人公とする長編物語。世界最古級の長編小説とも評される。
清少納言『枕草子』
「春はあけぼの」で知られる随筆。宮中の暮らしを鋭い感性で描く。
寝殿造建築
貴族の住まい。庭と池を配し、自然を室内に取り込む日本的な様式。
平等院鳳凰堂1053年
藤原頼通が建立。死後に極楽へ行きたいと願う浄土信仰の代表建築。
武士はどこから現れたか
ここが平安時代の最重要ポイントです。地方では、荘園を守るため・広げるために武装する者が現れ、やがて武士という集団になりました。都の貴族は、警備や地方の反乱鎮圧のために彼らを使います。つまり武士は最初、貴族の用心棒でした。ところが実際の武力を持つのは武士です。使う側と使われる側の力関係は、やがて逆転していきます。
- 794年桓武天皇が平安京に都を移す
- 797年坂上田村麻呂が征夷大将軍に。最澄・空海が新しい仏教を伝える
- 894年菅原道真の意見で遣唐使が停止される
- 935〜941年平将門の乱・藤原純友の乱。武士の実力が示される
- 1016年藤原道長が摂政となる。摂関政治の全盛
- 1086年白河上皇が院政を始め、藤原氏の力がおとろえる
- 1156・1159年保元の乱・平治の乱。武士が中央政界の主役になる
- 1167年平清盛が武士として初めて太政大臣となる
- 1185年壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、源頼朝の時代へ
院政と、平氏政権
1086年、白河上皇が位をゆずったあとも上皇として政治を行う院政を始めます。天皇の父・祖父という立場は、藤原氏の「母方の祖父」より強い。こうして摂関政治は終わります。しかし院政は、上皇と天皇という二つの権力を生み、対立が起きたときに武士の力を借りざるをえませんでした。それが1156年の保元の乱、1159年の平治の乱です。勝ち残った平清盛は1167年に太政大臣となり、娘を天皇のきさきにして権力を握りました ── 藤原氏とまったく同じやり方です。この「武士なのに貴族的」な姿勢が反発を招き、源氏の挙兵を経て1185年、平氏は壇ノ浦で滅びました。
ここを取り違えない 平清盛の政権は「最初の武士の政権」といえますが、やり方は貴族政治のままでした。武士の武士による政治の仕組み=幕府をつくったのは、次の源頼朝です。この違いが、鎌倉時代の意味を決めます。
一問一答
- 藤原氏が権力を握った方法を、一文で説明してください。
- 894年に遣唐使が停止された結果、育った文化を何といいますか。
- 院政とはどのような政治のしくみですか。
- 武士はもともと、どのような役割から生まれましたか。
解答を見る
- 娘を天皇のきさきとし、生まれた子を天皇に立てて、摂政・関白として政治を代行した。
- 国風文化。かな文字が発達し、『源氏物語』『枕草子』が生まれた。
- 天皇が位をゆずったあと、上皇(院)として実権を握り続ける政治。
- 荘園を守り広げるために武装した者たち。都では貴族の警備などを担った。
STEP 7
中世
鎌倉時代 ── 武士による、武士のための政権が生まれる
目安 4日
このステップの到達点 ── 御恩と奉公という関係で幕府が成り立っていたことを説明でき、その関係が元寇でなぜ壊れたのかまで言える。
幕府とは何か ── 土地でつながる約束
1185年、源頼朝は国ごとに守護、荘園ごとに地頭を置く権利を朝廷に認めさせました。守護は軍事・警察、地頭は土地の管理と年貢の取り立てを担当します。1192年には征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府が成立しました。都から離れた鎌倉に本拠を置いたのは、貴族の影響を避けるためです。
幕府を支えたのは、将軍と御家人(従う武士)の間の次の関係でした。
- 御恩:将軍が御家人の領地を保証し、手柄があれば新しい土地を与える
- 奉公:御家人は戦のときに命がけで戦い、ふだんは京都や鎌倉の警備をする
この土地を介した give and take が、武士の政権の土台です。逆にいえば、与える土地がなくなれば幕府は崩れる ── これが後の元寇で現実になります。
執権政治 ── 将軍のいない幕府
頼朝の死後、その妻北条政子の実家である北条氏が執権という役職について実権を握ります。1221年、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵を挙げますが(承久の乱)、御家人たちは政子の呼びかけで結束し、わずか1か月で朝廷側が敗れました。幕府は京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視し、武士の力が朝廷を上回ることが決定的になります。
1232年、3代執権北条泰時が御成敗式目(貞永式目)を定めました。これは、御家人どうしの争いを公平に裁くための、武士による最初の法律です。難しい漢文ではなく、武士が実際に守ってきた慣習にもとづいて書かれており、のちの武家法の手本になりました。
- 1185年壇ノ浦で平氏滅亡。頼朝が守護・地頭を置く権利を得る
- 1192年源頼朝が征夷大将軍に任じられる
- 1203年北条時政が執権となり、以後北条氏が実権を握る
- 1221年承久の乱。幕府が後鳥羽上皇に勝ち、六波羅探題を設置
- 1232年北条泰時が御成敗式目を制定
- 1274・1281年元寇(文永の役・弘安の役)。元軍を退けるが恩賞が出せず
- 1297年永仁の徳政令。御家人の借金を帳消しにするが効果は薄い
- 1333年後醍醐天皇らにより鎌倉幕府が滅亡
元寇 ── 勝ったのに幕府が傾いた理由
13世紀、ユーラシアを制したモンゴル帝国(元)のフビライ・ハンが日本に服属を求めます。執権北条時宗がこれを拒否したため、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度、大軍が九州北部に襲来しました。日本側は、集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火器に苦しみながらも、防塁の構築と暴風雨もあってこれを退けます。
問題はそのあとでした。防衛戦だったため、新しい土地が手に入らなかったのです。命がけで戦った御家人に与える恩賞がない。「御恩と奉公」の約束が果たせなくなり、御家人は借金を重ねて没落していきます。1297年の永仁の徳政令(借金の帳消し)も混乱を招くばかりでした。幕府への不満が高まったところに後醍醐天皇が倒幕を呼びかけ、足利尊氏や楠木正成、新田義貞らが動いて、1333年に鎌倉幕府は滅びます。
鎌倉文化と新しい仏教
力強い武士の気風を反映した文化が生まれました。東大寺南大門の金剛力士像(運慶・快慶ら)、軍記物語『平家物語』(琵琶法師が語り広めた)が代表です。また、戦乱と災害の続く不安な時代を背景に、だれでも実行できる分かりやすい教えを説く新しい仏教が広まりました。
1192年か、1185年か かつては「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と教わりました。現在は、実質的な支配の始まりを重視して1185年(守護・地頭の設置)を成立とする教科書が主流です。どちらも間違いではなく、「何をもって成立と見るか」の違いだと理解してください。
一問一答
- 将軍と御家人を結んでいた関係を何といいますか。
- 1221年の承久の乱の結果、何が決定的になりましたか。
- 元寇に勝ったのに幕府がおとろえたのはなぜですか。
- 武士に広く支持された禅宗の宗派を1つ挙げてください。
解答を見る
- 御恩と奉公。土地の保証と、軍事的な奉仕を交換する関係。
- 武士(幕府)の力が朝廷を上回ったこと。京都に六波羅探題が置かれた。
- 防衛戦で新しい領地が得られず、御家人に恩賞を与えられなかったため。
- 臨済宗(栄西)。曹洞宗(道元)も禅宗。
STEP 8
中世
室町時代 ── 幕府が弱り、下剋上の戦国へ
目安 4日
このステップの到達点 ── 応仁の乱を境に「幕府の権威が消え、実力がすべての世になった」と説明でき、下剋上という言葉を具体例つきで使える。
南北朝の動乱と室町幕府
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、天皇中心の政治(建武の新政)を始めます。しかし武士の働きに見合う恩賞を与えず、公家を重んじたため、わずか2年ほどで武士の支持を失いました。1336年、足利尊氏が兵を挙げて京都に別の天皇を立て、後醍醐天皇は吉野に逃れます。以後約60年、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝時代となりました。
1338年に尊氏は征夷大将軍となり室町幕府を開きます。3代将軍足利義満が1392年に南北朝を統一し、京都の室町に「花の御所」を構えて幕府の全盛期を築きました。義満は日明貿易(勘合貿易)を始め、正式な貿易船と倭寇(海賊)を区別するために勘合という合い札を用いています。莫大な利益を得た義満は、金閣に象徴される北山文化を生みました。
- 1334年後醍醐天皇の建武の新政。武士の不満を招き2年で崩れる
- 1338年足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開く
- 1392年足利義満が南北朝を統一。1404年から日明貿易
- 1428年正長の土一揆。民衆が借金の帳消しを求めて立ち上がる
- 1467〜1477年応仁の乱。京都が焼け、幕府の権威が失われて戦国時代へ
- 1485・1488年山城の国一揆、加賀の一向一揆。民衆が国を自治する例が現れる
- 1543年種子島に鉄砲が伝来。戦い方が根本から変わる
- 1549年フランシスコ=ザビエルが来日し、キリスト教を伝える
応仁の乱 ── 何が終わったのか
8代将軍足利義政の後継ぎ争いに、有力大名の細川勝元と山名宗全の対立が結びつき、1467年に京都で戦いが始まりました。全国の大名が二手に分かれ、戦いは11年も続きます。京都は焼け野原となり、決着はうやむやのまま終わりました。
重要なのは結果です。将軍にはもう戦いを止める力がないことが全国に知れわたりました。以後、実力さえあれば身分の低い者が上の者を倒して取ってかわる下剋上の世となり、各地に独自の分国法を定めて領国を治める戦国大名が現れます。応仁の乱で終わったのは戦いではなく、「上の者に従う」という前提だったのです。
この時代に生まれ、いまも続くもの
室町時代は、現代の日本文化の原型が数多く生まれた時代でもあります。8代将軍義政のころの東山文化は、その中心です。
書院造東山文化
畳・障子・床の間・違い棚。現在の和室の直接の祖先(銀閣の東求堂同仁斎)。
能・狂言北山文化
観阿弥・世阿弥が大成した舞台芸術。義満の保護を受けた。
水墨画東山文化
雪舟が日本独自の様式を確立。墨の濃淡だけで風景を描く。
茶の湯・生け花東山文化
禅の精神と結びつき、作法をともなう文化として広まった。
また、村では農民が惣と呼ばれる自治組織をつくり、話し合いで掟を決め、年貢の減免を求めて土一揆を起こすようになります。民衆が自分たちで動き始めたのもこの時代の大きな特徴です。
鉄砲とキリスト教の意味 1543年の鉄砲伝来は、城のつくり(山城から平城へ)と戦い方(騎馬中心から足軽の集団戦へ)を変え、戦国の決着を早めました。1549年のザビエル来日以降、貿易の利益を求めた大名がキリスト教を保護し、南蛮文化が流入します。この2つが、次の天下統一の背景です。
一問一答
- 足利義満が日明貿易で用いた、正式な船の証明となる合い札を何といいますか。
- 応仁の乱がもたらした最大の変化は何ですか。
- 身分の低い者が実力で上の者を倒すことを何といいますか。
- 現在の和室のもとになった建築様式を何といいますか。
解答を見る
- 勘合(かんごう)。
- 将軍・幕府の権威が失われ、実力がものをいう戦国時代に入ったこと。
- 下剋上(げこくじょう)。
- 書院造(しょいんづくり)。
STEP 9
近世
安土桃山時代 ── 信長と秀吉が、100年の戦乱を終わらせる
目安 4日
このステップの到達点 ── 信長・秀吉・家康の役割の違いを一言ずつで言え、太閤検地と刀狩がなぜ江戸時代の身分制度につながるのかを説明できる。
織田信長 ── 古い権威を壊した人
尾張の小大名だった織田信長は、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破って台頭します。信長の強みは、それまでの常識を疑ったことにありました。
- 1575年 長篠の戦い:大量の鉄砲を組織的に用い、最強とされた武田の騎馬隊を破る
- 楽市・楽座:城下町での商売の税や特権を廃止し、誰でも自由に商売できるようにして経済を活性化
- 関所の廃止:物と人の流れをよくする
- 比叡山焼き討ち・一向一揆との戦い:政治に口を出す宗教勢力を武力で抑える
1573年には15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼしました。しかし天下統一を目前にした1582年、家臣の明智光秀に襲われて自害します(本能寺の変)。
豊臣秀吉 ── 統一し、社会の仕組みを固めた人
農民出身とされる豊臣秀吉は、光秀をただちに討って信長の後継者となり、1590年に全国統一を達成しました。秀吉の重要性は、戦いよりその後の仕組みづくりにあります。
- 太閤検地:全国の田畑の面積と収穫高を、統一したものさし・ますで調査し、耕作者を検地帳に登録した。これにより年貢の量が正確に把握でき、複雑にからみあっていた荘園の権利が整理されて荘園制が完全に消滅した
- 1588年 刀狩:大仏をつくるという名目で農民から武器を取り上げた。一揆を防ぐと同時に、武士と農民をはっきり分けるねらいがあった
この2つを合わせて兵農分離といいます。戦う人(武士)と作る人(農民)を制度として切り離したわけで、これが江戸時代の身分制社会の土台になりました。日本史の中でも影響の大きい政策です。
一方で秀吉は、明の征服をめざして1592年と1597年の二度、朝鮮に出兵します(文禄・慶長の役)。これは失敗に終わり、朝鮮に大きな被害を与え、豊臣家の力も大きく損ないました。1598年に秀吉が死ぬと出兵は中止されます。
- 1560年桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を破る
- 1573年信長が足利義昭を追放し室町幕府が滅亡
- 1575年長篠の戦い。鉄砲の組織的な使用
- 1582年本能寺の変。秀吉が明智光秀を討つ。太閤検地を開始
- 1588年刀狩令。兵農分離が進む
- 1590年秀吉が全国統一を達成
- 1592・1597年朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)。失敗し豊臣政権が弱まる
- 1600年関ヶ原の戦い。徳川家康が勝ち、天下の実権を握る
桃山文化 ── 豪華で、はじめて庶民が主役に
天下人の富と力を示す、豪華で雄大な文化が生まれました。姫路城などの壮大な天守、狩野永徳の金地に描かれた障壁画(『唐獅子図屏風』)が代表です。同時に、千利休が質素なわびの精神を重んじるわび茶を大成しました。豪華さと簡素さが同時に極まった、対照的な時代です。また、南蛮貿易を通じてパン・カステラ・時計・活版印刷などが伝わりました。
三人の役割を一言で 信長=壊した人(古い権威と仕組みを破壊)、秀吉=統一し仕組みを作った人(検地・刀狩)、家康=続く形にした人(260年の体制を設計)。よく知られたホトトギスのたとえも、この性格の違いを表しています。
一問一答
- 信長が城下町で商工業を活発にするために行った政策を何といいますか。
- 太閤検地によって、何が完全に消滅しましたか。
- 検地と刀狩によって進んだ、武士と農民を分ける動きを何といいますか。
- わび茶を大成した人物は誰ですか。
解答を見る
- 楽市・楽座。
- 荘園制(荘園にからむ複雑な土地の権利)。
- 兵農分離。
- 千利休(せんのりきゅう)。
STEP 10
近世
江戸時代(前期)── 260年の平和を、どう設計したか
目安 4日
このステップの到達点 ── 幕府が大名・朝廷・宗教・外国をどう抑えたのかを制度名つきで挙げられ、「鎖国」が完全な閉鎖ではなかったことを説明できる。
幕藩体制 ── 反乱を起こさせない仕組み
1600年の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。以後260年あまり、日本は大きな内戦のない時代を迎えます。これは偶然ではなく、反乱を起こせないよう徹底的に設計された結果でした。
※ 参勤交代は結果として街道や宿場町を発達させ、江戸を人口100万人を超える巨大都市に育てました。全国の物流と情報網が整った点で、経済史上の意味も大きい制度です。
身分制の社会
秀吉の兵農分離を受けて、武士・百姓・町人という身分が定められ、原則として身分は変えられませんでした。人口の約85%を占めた百姓が年貢を納め、それが武士の暮らしを支える構造です。さらに、えた・ひにんと呼ばれ差別された身分が置かれました。これは制度としてつくられた差別であり、後の部落差別の歴史的な根にあたります。事実として押さえておくべき点です。
「鎖国」とは何だったのか
キリスト教の禁止と、貿易の利益を幕府が独占することを目的に、外交・貿易は段階的に制限されました。決定打は1637年の島原・天草一揆です。キリスト教徒を含む農民ら約3万7000人が天草四郎を指導者として蜂起し、幕府は鎮圧に大変な労力を要しました。これを機に1639年ポルトガル船の来航を禁止し、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移して、いわゆる鎖国体制が完成します。
ただし、日本は完全に閉じていたわけではありません。次の4つの窓口は開いていました。
長崎幕府直轄
オランダ・中国と貿易。オランダ風説書で海外情報も入手した。
対馬宗氏
朝鮮との窓口。将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が来日した。
薩摩島津氏
琉球王国を支配し、その中国との貿易の利益を得ていた。
松前松前氏
蝦夷地でアイヌの人びとと交易。不公平な取引が争いも生んだ。
つまり「鎖国」とは、幕府が対外関係を独占・管理する体制だったというのが現在の理解です。近年の教科書が「鎖国」にかぎ括弧を付けたり「幕府の対外政策」と表現したりするのは、このためです。
- 1603年徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
- 1615年大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡。武家諸法度を制定
- 1635年3代将軍家光が参勤交代を制度化
- 1637年島原・天草一揆。キリスト教への警戒が決定的になる
- 1641年オランダ商館を出島に移し、「鎖国」体制が固まる
- 1680年代〜5代将軍綱吉の時代。元禄文化が花開く
- 1657年明暦の大火。江戸の町の大半が焼け、都市改造が進む
元禄文化 ── 経済力を持った町人の文化
平和が続くと、田畑が広がり(新田開発)、商業が発達します。大阪は「天下の台所」と呼ばれ、江戸は最大の消費地となりました。豊かになった上方(京都・大阪)の町人を担い手として生まれたのが元禄文化です。
井原西鶴浮世草子
『日本永代蔵』など、町人の金銭と欲望をいきいきと描いた小説。
近松門左衛門人形浄瑠璃
『曾根崎心中』など、義理と人情の板ばさみを描いた脚本。
松尾芭蕉俳諧
『おくのほそ道』。俳諧を芸術の高みに引き上げた。
菱川師宣浮世絵
『見返り美人図』。版画により絵が庶民の手に届くようになる。
なぜ260年も平和が続いたのか 制度の巧みさに加え、戦う必要がなくなった武士が役人になったことが大きいといわれます。武士は刀を差した官僚として文書仕事をこなし、学問(朱子学)を修めるようになりました。「武士の時代」の後半は、実は戦わない武士の時代だったのです。
一問一答
- 大名を1年おきに江戸と領地を往復させた制度を何といいますか。
- その制度のねらいを説明してください。
- 「鎖国」下でも開いていた4つの窓口を挙げてください。
- 上方の町人が担い手となった文化を何といいますか。
解答を見る
- 参勤交代。
- 多額の費用を負担させて大名の財力を削ぎ、妻子を人質として江戸に置くことで反乱を防ぐため。
- 長崎(オランダ・中国)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)。
- 元禄文化。
STEP 11
近世
江戸時代(後期)── 財政難、三大改革、そして開国
目安 5日
このステップの到達点 ── 幕府がなぜ財政難に陥ったのかを説明でき、ペリー来航から大政奉還までの15年の流れを順に語れる。近代日本の出発点にあたる、いちばん密度の濃いステップです。
なぜ幕府は貧しくなったのか
幕府の収入の柱は米でした。ところが、経済が発展して世の中は貨幣で動くようになります。米の値段は豊作なら下がり、諸物価は上がる。収入は米、支出は貨幣という構造のねじれが、幕府と武士をじわじわ苦しめました。これに凶作や飢饉、火災が重なります。だから改革はいつも「倹約と米の増産」から始まり、経済の変化そのものには追いつけませんでした。
※ 覚え方:享保→田沼→寛政→天保の順。「引き締め(享保)→ゆるめて商業重視(田沼)→また引き締め(寛政)→最後の引き締め(天保)」と、締める・ゆるめるの振り子で捉えると流れが頭に入ります。
民衆の力と、新しい学問
飢饉のたびに百姓一揆や打ちこわしが起こりました。1837年には、幕府の元役人だった大塩平八郎が飢えた人びとを救おうと大坂で挙兵します。半日で鎮圧されましたが、幕府の役人が幕府に反乱したという衝撃は大きなものでした。
学問も動きます。オランダ語を通じて西洋を学ぶ蘭学では、杉田玄白らが解剖書を訳した『解体新書』(1774年)を出し、伊能忠敬は全国を歩いて正確な日本地図をつくりました。一方、日本古来の考え方を研究する国学では本居宣長が『古事記伝』を著し、これがのちに天皇を尊ぶ思想(尊王論)につながっていきます。西洋の知識と天皇尊崇 ── 幕末を動かす2つの思想が、ここで準備されたわけです。
化政文化 ── 庶民が主役に
19世紀初め、江戸を中心に庶民の文化が広がりました。葛飾北斎『富嶽三十六景』、歌川広重『東海道五十三次』の錦絵(多色刷り版画)は、のちにヨーロッパの画家たちにも影響を与えます。十返舎一九『東海道中膝栗毛』のような滑稽な読み物、川柳や狂歌も流行しました。寺子屋が普及し、当時の日本の識字率は世界でも高い水準にあったとされます。これが明治の急速な近代化を支えました。
開国 ── 15年で幕府が倒れるまで
1853年、アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、開国を要求します。捕鯨船の補給地が必要だったためです。圧倒的な軍事力を前に、幕府は翌1854年に日米和親条約を結んで下田・函館を開きました。さらに1858年、大老井伊直弼は朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約を結びます。これは次の2点で不平等な条約でした。
- 領事裁判権(治外法権)を認めた:日本で罪を犯した外国人を、日本の法律で裁けない
- 関税自主権がない:輸入品にかける税率を日本が自由に決められない
この不平等の解消は、以後半世紀にわたる日本外交の最大の課題となります。貿易が始まると物価が急上昇して生活が苦しくなり、朝廷を無視した幕府への批判が噴き出しました。尊王攘夷運動です。井伊直弼は反対派を弾圧しますが(安政の大獄)、1860年に暗殺されます(桜田門外の変)。
やがて、薩摩藩と長州藩は外国と実際に戦って攘夷(外国を追い払うこと)が不可能だと悟り、方針を「幕府を倒して新しい強い国をつくる」に切り替えます。1866年、坂本龍馬らの仲介で犬猿の仲だった両藩が薩長同盟を結成。追い込まれた15代将軍徳川慶喜は1867年、政権を朝廷に返上しました(大政奉還)。しかし同年12月の王政復古の大号令で新政府の樹立が宣言され、徳川家は政治から排除されます。ここに、約680年続いた武士の政権が終わりました。
- 1716年徳川吉宗の享保の改革が始まる(〜1745)
- 1774年杉田玄白ら『解体新書』を出版。蘭学が広まる
- 1837年大塩平八郎の乱。元幕府役人による挙兵に衝撃が走る
- 1841年水野忠邦の天保の改革(〜1843)。失敗に終わる
- 1853年ペリー来航。翌1854年、日米和親条約で開国
- 1858年日米修好通商条約(不平等条約)。安政の大獄
- 1860年桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される
- 1866年薩長同盟が成立し、倒幕の動きが加速
- 1867年大政奉還と王政復古の大号令。江戸幕府が終わる
ごろ合わせ ペリー来航は「いやでござる(1853)ペリーさん」。ただ、より大事なのは「なぜ不平等条約が問題なのか」を説明できることです。この2つの不平等が、明治政府の外交目標そのものになります。
一問一答
- 享保の改革を行った将軍は誰ですか。設置した意見箱の名前も答えてください。
- 日米修好通商条約が不平等とされた2つの点を答えてください。
- 1866年に薩摩藩と長州藩が結んだ同盟を何といいますか。
- 1867年に徳川慶喜が政権を朝廷に返したことを何といいますか。
解答を見る
- 徳川吉宗。目安箱。
- アメリカの領事裁判権(治外法権)を認めたこと、日本に関税自主権がなかったこと。
- 薩長同盟。
- 大政奉還(たいせいほうかん)。
STEP 12
近代
明治時代 ── 30年で近代国家をつくり上げる
目安 5日
このステップの到達点 ── 明治政府の政策がすべて「不平等条約を直し、欧米に対等と認めさせる」という一点に向かっていたと説明できる。バラバラに見える改革が、一本の線でつながります。
出発点にあった、たった一つの課題
新政府が直面していたのは、このままでは植民地にされるという危機感でした。実際、アジアの多くの地域が欧米の支配下に入っていました。条約を対等なものに改めるには、「日本は欧米と同じ文明国だ」と認めさせるしかない。そのために必要だったのが、富国強兵(豊かな国と強い軍隊)と殖産興業(近代産業の育成)です。以下の政策は、すべてこの目的から出ています。
- 1868年 五箇条の御誓文:新政府の基本方針を示す。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」
- 1869年 版籍奉還/1871年 廃藩置県:藩を廃止して県を置き、政府が任命した知事を派遣。中央集権の完成
- 1872年 学制:すべての子に小学校教育を。人材こそ国力の源
- 1873年 徴兵令:身分に関係なく20歳以上の男子に兵役。武士だけが戦う時代の終わり
- 1873年 地租改正:土地の値段の3%を現金で納めさせる。収穫に左右されない安定した財源の確保
- 殖産興業:富岡製糸場など官営模範工場を建設、鉄道・郵便・電信を整備
同時に、身分制度が廃止されて四民平等となり、生活面でも洋服・ガス灯・太陽暦などが取り入れられました(文明開化)。福沢諭吉は『学問のすゝめ』で「天は人の上に人を造らず」と説き、学ぶことで身を立てる新しい価値観を広めました。
不満と、自由民権運動
急激な改革は不満も生みます。特権を失った士族の不満は、1877年の西南戦争(西郷隆盛を指導者とする最大の士族反乱)で頂点に達しますが、徴兵制による政府軍に鎮圧されました。武力による反抗が終わったことで、以後の反政府運動は言論によるものになります。
板垣退助らは1874年に民撰議院設立建白書を提出し、国会を開いて国民の意見を政治に反映せよと主張しました(自由民権運動)。運動の高まりを受け、政府は1881年に10年後の国会開設を約束します。
憲法と議会 ── アジア初の立憲国家へ
伊藤博文はヨーロッパで憲法を調査し、君主の権限が強いドイツ(プロイセン)の憲法を手本としました。1885年に内閣制度をつくって初代内閣総理大臣となり、1889年2月11日、大日本帝国憲法が天皇が定める形(欽定憲法)で発布されます。翌1890年には第1回帝国議会が開かれました。アジアで初めての近代的な憲法と議会です。
大日本帝国憲法と日本国憲法のちがい 主権者が天皇か国民か、が最大の違いです。帝国憲法では、国民は「臣民」として法律の範囲内で権利を認められ、軍隊の指揮権(統帥権)は天皇に属し議会が関与できませんでした。この統帥権の独立が、のちに軍部の暴走を止められなくなる制度的な原因になります。
二つの戦争と、条約改正の達成
朝鮮をめぐる対立から、1894年に日清戦争が起こり日本が勝利、翌年の下関条約で賠償金と台湾などを得ました。しかしロシア・ドイツ・フランスの三国干渉で遼東半島の返還を迫られ、対ロシア感情が高まります。1902年に日英同盟を結び、1904年に日露戦争が始まりました。日本は多大な犠牲を払って優勢に戦い、1905年のアメリカ仲介によるポーツマス条約で講和します。しかし賠償金が取れなかったため、増税に耐えた国民の不満が暴動(日比谷焼き打ち事件)となって噴き出しました。
条約改正は、この間に進みました。1894年に陸奥宗光が領事裁判権の撤廃に成功し、1911年に小村寿太郎が関税自主権を回復。ペリー来航から58年、明治政府の最大の目標がついに達成されます。一方で日本は1910年に韓国併合を行い、朝鮮を植民地としました。日本が「される側」から「する側」に移ったこの事実は、近隣諸国との関係を考えるうえで欠かせない前提です。
- 1868年五箇条の御誓文。戊辰戦争を経て新政府が全国を掌握
- 1871年廃藩置県。岩倉使節団が欧米へ出発
- 1873年徴兵令・地租改正。近代国家の人と金の土台が整う
- 1877年西南戦争。士族の武力反抗が終わる
- 1889年大日本帝国憲法発布。翌年、第1回帝国議会
- 1894〜95年日清戦争と下関条約。同年、領事裁判権を撤廃
- 1904〜05年日露戦争とポーツマス条約。賠償金は得られず
- 1910年韓国併合。朝鮮を植民地とする
- 1911年小村寿太郎が関税自主権を回復。条約改正が完成
伊藤博文1841〜1909
憲法制定を主導し、初代内閣総理大臣となった。
福沢諭吉1835〜1901
『学問のすゝめ』で学びと自立を説き、慶應義塾を創設。
板垣退助1837〜1919
自由民権運動を主導し、国会開設を求めた。
西郷隆盛1828〜1877
倒幕の中心人物。のち士族に推されて西南戦争を起こす。
一問一答
- 明治政府のスローガン「富国強兵」「殖産興業」は、何のために掲げられましたか。
- 1873年の地租改正で、税の納め方はどう変わりましたか。
- 大日本帝国憲法で、主権を持っていたのは誰ですか。
- 関税自主権の回復は何年で、担当した外務大臣は誰ですか。
解答を見る
- 欧米に対等な国と認めさせ、不平等条約を改正するため(植民地化を防ぐため)。
- 収穫した米を納める形から、土地の価格の3%を現金で納める形になった。
- 天皇。国民は「臣民」として法律の範囲内で権利を認められた。
- 1911年、小村寿太郎。
STEP 13
近代
大正〜昭和戦前 ── 民主主義が育ち、そして戦争へ
目安 5日
このステップの到達点 ── 大正デモクラシーという民主化の流れが、なぜ十数年で軍部の台頭に押し流されたのかを、経済と制度の両面から説明できる。現代を考えるうえで、最も重い問いです。
大正デモクラシー ── 民主主義が広がった時代
第一次世界大戦(1914〜18)に日英同盟を理由に参戦した日本は、ヨーロッパが戦場となったすきに輸出を伸ばし、大戦景気にわきました。しかし物価も上がり、1918年には米価高騰に対する米騒動が全国に広がります。これをきっかけに内閣が倒れ、原敬が本格的な政党内閣を組織しました(「平民宰相」と呼ばれた)。
民主主義を求める動きは各方面に広がります。吉野作造は民本主義を唱え、平塚らいてうらは女性の地位向上を訴え(青鞜社・新婦人協会)、1922年には差別からの解放をめざす全国水平社が結成されました。そして1925年、普通選挙法が成立し、25歳以上のすべての男子に選挙権が認められます(女性の参政権は戦後まで実現しません)。
同じ年に成立した、もう一つの法律 1925年には治安維持法も成立しました。天皇制や私有財産制度を否定する運動を取り締まる法律で、のちに拡大解釈され、幅広い言論や思想の弾圧に使われていきます。選挙権の拡大と言論統制が同時に進んだ ── この時代を理解する重要な鍵です。
なぜ流れが変わったのか
1923年の関東大震災、そして1929年にアメリカから始まった世界恐慌が、日本経済を直撃しました。生糸の輸出が激減して農村は困窮し、都市には失業者があふれます。人びとの生活が壊れたとき、政党政治は有効な手を打てず、汚職も相次いだため強い不信を招きました。「政治家より軍のほうが国を立て直せる」という空気が広がっていきます。
ここに制度上の弱点が重なります。前ステップでふれた統帥権の独立により、軍は内閣の統制の外にありました。1931年、現地の関東軍が独断で軍事行動を起こし(満州事変)、翌年に満州国を建国します。政府は追認するほかありませんでした。1932年の五・一五事件で犬養毅首相が海軍将校らに暗殺されて政党内閣は終わり、1936年の二・二六事件を経て軍部の発言力は決定的になります。1933年、満州国を認めない国際連盟の勧告に反発して日本は国際連盟を脱退し、国際的に孤立しました。
戦争へ
1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、長期化します。1938年の国家総動員法で、政府は議会の承認なしに人も物資も戦争に動員できるようになりました。1940年に日独伊三国同盟を結び、アメリカとの対立は決定的となります。石油の輸出禁止など経済封鎖を受けた日本は、1941年12月、ハワイの真珠湾攻撃とマレー半島上陸によって太平洋戦争に突入しました。
戦局は1942年のミッドウェー海戦を境に悪化します。各地の玉砕、学徒出陣、勤労動員、都市への空襲(1945年3月の東京大空襲だけで約10万人が犠牲)と、被害は国民全体に及びました。1945年3〜6月の沖縄戦では住民を巻き込む地上戦となり、県民の約4人に1人が犠牲になったとされます。8月6日に広島、9日に長崎へ原子爆弾が投下され、8月14日にポツダム宣言を受諾、8月15日に終戦が国民に伝えられました。アジア太平洋全域で2000万人以上、日本人だけで約310万人が命を落としたとされています。
- 1914年第一次世界大戦に参戦。大戦景気となる
- 1918年米騒動ののち、原敬の本格的な政党内閣が成立
- 1923年関東大震災。約10万5000人が犠牲となる
- 1925年普通選挙法(25歳以上の男子)と治安維持法が成立
- 1929年世界恐慌。農村が困窮し、政党政治への不信が強まる
- 1931年満州事変。翌年満州国建国、五・一五事件で政党内閣が終わる
- 1933年国際連盟を脱退。1936年に二・二六事件
- 1937年日中戦争が始まる。翌年国家総動員法
- 1941年太平洋戦争が始まる
- 1945年沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、ポツダム宣言受諾で敗戦
この時代から学べること 民主的な制度があっても、生活が壊れ、制度に抜け穴があり、言論が封じられると、それは短期間で機能しなくなります。個々の判断が一つひとつは「やむをえない」ものに見えても、全体としては引き返せない方向へ進むことがある ── これが、多くの歴史家がこの時代から取り出す教訓です。
一問一答
- 1925年に成立した2つの重要な法律を答えてください。
- 軍部が内閣の統制を受けずに行動できた制度上の理由は何ですか。
- 1932年の五・一五事件によって何が終わりましたか。
- 日本が国際連盟を脱退した理由は何ですか。
解答を見る
- 普通選挙法と治安維持法。
- 統帥権の独立(軍の指揮権が天皇に属し、内閣・議会が関与できなかった)。
- 政党内閣(政党政治)。以後、軍部の影響力が強まった。
- 満州国を認めず撤退を求める国際連盟の勧告に反発したため。
STEP 14
現代
戦後〜令和 ── いまのニュースにつながる80年
目安 5日
このステップの到達点 ── 日本国憲法の三原則を挙げられ、高度経済成長 → バブル → 低成長という戦後経済の流れを説明できる。ここまで来れば、日々のニュースの背景が読めるようになります。
占領と、民主化の改革
敗戦後、日本はGHQ(連合国軍総司令部、最高司令官マッカーサー)の占領下に置かれ、二度と戦争を起こさない国にするための改革が進められました。
- 財閥解体:軍需産業を支えた大企業グループを分割
- 農地改革:地主の土地を政府が買い上げ、小作人に安く売り渡した。多くの農民が自作農になり、農村が豊かになった
- 労働三法の制定、女性参政権の実現(1945年、翌年の総選挙で39人の女性議員が誕生)
- 教育基本法(1947年):義務教育9年、男女共学
そして1946年11月3日に日本国憲法が公布、1947年5月3日に施行されました。三原則は国民主権・基本的人権の尊重・平和主義です。主権者が天皇から国民に移り、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」となりました。第9条で戦争の放棄と戦力の不保持を定めた点は、いまも議論が続くテーマです。
独立と、冷戦のなかの日本
米ソの対立(冷戦)が深まり、1950年に朝鮮戦争が起こると、アメリカは日本を西側の一員として早く独立させる方針に転じます。1951年、日本はサンフランシスコ平和条約を結んで翌年独立を回復し、同時に日米安全保障条約でアメリカ軍の駐留を認めました。1956年の日ソ共同宣言でソ連との国交が回復すると、国際連合への加盟が実現し、国際社会に復帰します。
高度経済成長 ── 世界が驚いた復興
1955年ごろから1973年まで、日本経済は年平均10%前後の成長を続けました。朝鮮戦争の特需、安価な石油、高い教育水準と勤勉な労働力、輸出に有利な固定為替相場(1ドル=360円)などが重なった結果です。1964年には東京オリンピックが開かれ、東海道新幹線が開通。1968年には国民総生産が資本主義国で世界第2位となりました。
いっぽうで、公害という深刻な代償も生みました。水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそくの四大公害病です。住民の訴訟をきっかけに1967年に公害対策基本法が定められ、1971年に環境庁(現・環境省)が設置されました。成長には必ず負の側面があるという教訓は、いまの環境問題にそのまま通じます。
低成長、バブル、そして現在
1973年の石油危機で高度成長は終わり、日本は省エネと技術で乗り切って安定成長に入ります。1980年代後半には土地と株の価格が異常に高騰するバブル経済となりましたが、1991年ごろに崩壊。以後、長い低成長とデフレの時代(「失われた30年」とも呼ばれる)が続きました。
さらに、少子高齢化と人口減少が国の最大の課題となり、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災と原発事故が、防災とエネルギー政策の見直しを迫っています。2019年に元号は令和となりました。いま報じられている年金・エネルギー・安全保障・近隣外交の問題は、ほぼすべてこの80年の延長線上にあります。
- 1946・47年日本国憲法公布(11/3)・施行(5/3)。農地改革などの民主化
- 1951年サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約。翌年独立回復
- 1956年日ソ共同宣言。国際連合に加盟し国際社会に復帰
- 1955〜73年高度経済成長。1964年に東京オリンピックと東海道新幹線
- 1972年沖縄復帰。日中国交正常化(1978年に日中平和友好条約)
- 1973年石油危機。高度経済成長が終わる
- 1991年ごろバブル経済が崩壊。長い低成長期に入る
- 1995・2011年阪神・淡路大震災/東日本大震災と原発事故
- 2019年天皇の退位により令和が始まる
ここまで来たら 毎日のニュースを見るとき、「これは戦後のどの流れの続きだろう?」と考えてみてください。歴史は暗記した瞬間ではなく、現在とつながった瞬間に「使える知識」になります。
一問一答
- 日本国憲法の三原則を答えてください。公布・施行の日付も。
- 農地改革によって農村はどう変わりましたか。
- 高度経済成長を終わらせた1973年のできごとは何ですか。
- 四大公害病を2つ挙げてください。
解答を見る
- 国民主権・基本的人権の尊重・平和主義。1946年11月3日公布、1947年5月3日施行。
- 地主の土地が小作人に売り渡され、多くが自作農となって生活が向上した。
- 石油危機(オイルショック)。
- 水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく(うち2つ)。